おはよう
まどろみの向こうで小さく聞こえた音。
それは閉めた扉が立てた小さな響きだと分かる。
早起きの恋人が身支度を整えて部屋を出たのだろう。彼女がいる時にしか聞けない音。
前の晩にどれだけ酔わせても、熱くなっても…自分より遅く起きる事は殆んどない。
まるでそんな事すらなかったかのように。
そこに彼女がいた温もりだけが寝台に残っている。
ギップルはまどろみと現を行ったり来たりしながら、その残った温もりに手を伸ばしてみる。
掴む事の出来ない…形の無い痕跡に何となく物寂しさを感じてしまう。
本当に全てが夢であったのではないかと思ってしまう事すらある。
もしかしたらまた夢を見ていたのではないかと、漸く動き出した頭の中で考えた時、直接聴覚を刺激する声が飛び込んできた。
「おい。いつまで…寝てるつもりだ？」
するはずの無い声にギップルは目を開けて跳ね起きた。
部屋を仕切るように置かれた衝立の向こうで、呆れたような顔をしてこちらを見ているパインの姿があった。
「…あれ？」
部屋を出たのだとばかり思っていたが、どうやら戻って来たところだったらしい。
嗅覚を擽る香ばしい匂い。
それが一気に思考を覚醒していく。
その香りが何だかは分かる。
でも…パインがいる時には絶対に嗅ぐ事の無いモノ。
「あれ…じゃない。今日は朝食を一緒にって言ったのはあんただろ？」
明日は早くに帰らなければならないと告げたパインに、朝飯くらいは一緒に食べたいと言った…昨晩の自分の言葉を思い出した。
パインはいつもなら、自分が起きる頃には軽い食事を適当に済ませてしまっている。
だから…折角の時間を少しでも一緒に過ごしたいと思ったから言ってみた。
でも、まさか本当にそれを叶えて貰えるとは想像もしていなくて。
もしかしたら…まだ夢の続きなのだろうか。
そう疑ってはみたが、香ばしい匂いが確かにしていた。
「…悪い。今起きる」
「パンは二つで良いか？」
「足りねえよ。…三つ」
少し呆れたような溜息を付くと、パインは肩を竦める仕種をして再び部屋を出ていってしまう。
ギップルは寝台を降りて…まだ眠い目を擦りながら手近な服を身に付け、衝立の向こうを覗き込んでみた。
食台の上にそれぞれの朝食が盛られたプレートが二つと…珈琲が一つだけ置かれていた。
湯気が立っているところを見ると煎れたてなのだろう。
ただそれだけなのに、その光景が何だか嬉しい気がした。
パインが苦手な珈琲。
それは、朝の食卓に添えられた…彼女の言葉。