■１０・教えてもらったこと
熱いシャワーを浴びた。
美味しいお茶を淹れて貰った。
そして、少し眠った。
話したいことは沢山あったけれど、今の二人に必要なのは言葉じゃなかったから。
軽いキスを交わし、彼の腕の中に潜り込んで。
折角広いベッドなのに…と苦笑が過ぎったけれど、合わさるスプーンのように寄り添ったまま眠りに落ちた。
触れ合う訳でもなくただ温もりを感じているだけなのに、不思議と満ち足りていく気がした。
夢も見ないままに目覚めた時、淡い紗の向こうは薔薇の色に染まっていた。
見た者誰もが絶賛する美しい夕日が今日も空を染め上げているのだろう。
聞こえてくるのは健やかな呼吸の音。
どうやらギップルはここ数日殆んど寝ていなかったらしく、腕の中に私を抱きこんだ途端に寝息を立て出した。
今でも規則正しく繰り返されたままだ。
半身を起こして、大気の色に淡く染まる金の髪に指を伸ばし軽く梳いてみると、しっとりと汗ばんでいた。
その顔には疲労の色がまだ濃く残っている。
ここに辿り着く為にどれだけ足掻いたのだろう。
自分はただ己のことしか考えていなかったのに。
…ごめんね。
それと、ありがとう。
パインは今伝えたい言葉の代わりにそっと唇を寄せた。
髪に、額に、目じりに、
そして、口許に。
小さな感触が擽ったかったのか、ギップルは微かな呻きを漏らして小さく身じろぐ。
起こしてしまったか…と、暫く窺っていたが目を開ける気配はない。
どんな夢を見ているのか、口許が僅か綻んでいる。
その面差しがあまりにも幸せそうで、パインは密やかに微笑んだ。
不思議な気持ちだった。
ただ傍らにある事への安堵を覚えていたのとは違う。
苦しさも切なさも有しながら、それでいて満たされる。
思慕や憧れでもなく、胸を焦がすような熱い想いではない。
己の持つ全ての優しさで包み込んであげたくなる。
そんな気持ちだった。
何と呼ぶ感情なのか分からなくて少し考えたけれど、そんなこと自体が無意味に思えた。
…愛しい。
ただ、そう表現するのが一番相応しい気がした。
まだ少しこの心地良さに浸っていたいけれどもう直ぐ夜がやって来る。
その前に起き出した方が良いだろう。
目が覚めたこの男の第一声が想像出来るだけに。
…予想外って言うか予定外だったし、二人分作れるかな。
買い置きしてあった食材を頭の中で巡らせながら腕の中から抜け出そうとした途端、服が軽く引っ張られた。
見れば、僅か引っ掛けるようにギップルの指先が布地を捕らえている。
「……どこ、行く…？」
まだ半分夢の中にいるのか、掠れた声がたどたどしく問う。
うっすらと目を開けて、どこか不満そうに眉根を寄せている。
…いつもはベッドを抜け出したくらいじゃ起きないくせに。
パインは小さく微苦笑を返し、金の髪を優しく撫でた。
「お腹空く頃だろ？あり合わせで何か作るよ。出来たら起こしに来るから…」
「まだ、いい…か…」
今にも吐息に変わってしまいそうな途切れ途切れの囁きと共に腕を伸ばされ、再び身を絡め取られる。
どうやら今は食事より抱き枕をご所望らしい。
「後で腹減った…って言うなよ？」
軽い苦笑と共に問うが、既にギップルは睡魔の誘惑に陥落してしまったらしく、応えたのは繰り返される寝息だけ。
己の顔が綻んでいるのを感じながら、パインは広い背中に片腕を伸ばしてみた。
いつも与えて貰っているばかりで何も返せていないから。
だからせめて今は、彼の至福の時間を守ってあげよう。
私は心地良い温もりを腕に抱いて静かに目を閉じた。
夕暮れの涼やかな風が優しく二人を包む。
……………
唐突に目が覚めた。
まるで夢から転げ落ちてしまったかのように。
ギップルは数度瞬かせた瞳を凝らし、辺りへと視線を辿らせた。
そこがどこなのか認識するのに少し時間がかかったのは、部屋の様子を記憶に刻み込む前に眠ってしまったせいだろう。
明かり一つ灯されていない部屋なのに仄かに明るい。窓の向こうを照らす月の光が調度品のシルエットを描いている。
腕の中から聞こえる小さな呼吸音。
繰り返される吐息が僅か肌に触れて、少しくすぐったい。
漏れ入る月の光を背に受けてその表情までは見えないけれど、どうやら彼女は眠っているらしい。
夜の帳が下りてどれくらい経ったのだろう。まさかもう夜半を回ったのか。
何か食事を作るような台詞を聞いたような気もするが、記憶が定かではない。
彼女が腕の中にいることに安堵を覚えて、眠りに意識を委ねてしまったから。
それにしても…と、ギップルは小さく苦笑を刷いた。
…よく寝た気がする。
ベッドに入ったのがまだ午後の強い光が溢れる頃だったのだから、それも当然か。
シエスタというよりは本格的な睡眠だったかもしれない。
少し眠る？と言ったのはパインの方だった。
何だか意味深な響きに聞こえて期待を膨らませたが、いつもの呆れ台詞で一蹴されてしまった。
漸く会えたのに寝るなんて勿体無さ過ぎて頭は駄々を捏ねたのだが、疲労困憊の体の方が付いていかなかった。
多分パインはそれに気がついて、ベッドに入ることを勧めたのだろう。
本当は温かな肌の全てに口付けたかったけれど、そっと唇を触れ合わせるだけに留めて眠りに落ちた。
勿論、逃さないように抱き込んで。
緩んでいた腕にそっと力を込めて抱え直そうとすると、納まっていた体が小さく身じろいだ。
「…んっ……」
途切れた寝息の代わりに聞こえた…鼻にかかったような仄かに甘い呻き。
どうやら眠りが浅かったらしい。
「悪い、起こしたか？」
パインは子供がする仕種のように目を擦って、瞳を幾度か瞬かせた。
表情までは窺えなかったけれど、長い睫毛の先がそれを教えてくれる。
彼女は頭だけを動かして辺りを窺うと、ゆるりと吐息して小さく問いた。
「今、何時？」
「さあな…。もしかしてずっと寝てたのか？」
「一度目が覚めたんだけど、あんたが離してくれなかったから…」
覚えてないの？と呆れを含んだ声に言われて、ギップルはぼんやりとしている記憶が現実であったことを知った。
「いや、何となくは覚えてるんだけど…」
「寝ぼけ半分だった…ってことだな」
…いつもなら勝手に抜け出して行っちまうくせに。
逃さないように抱いて眠っても、目覚めた時には傍らにいないことの方が多いのに。
離してくれなかった…と言うのは口実で、彼女がここに留まりたいと思ってくれたと言うことなのだろう。
普段から素直じゃない人だからそれに惑わされそうになるけれど、ホントはこっそりと気持ちを表してくれていたりする。
見付けた「彼女の想い」も嬉しいし、それを見逃さずに気が付けたこと自体も嬉しい。
傍目から見たら小馬鹿にされるようなささやかなことなのかもしれないけれど。
「やっぱ、起きた方が良いよな？」
「だろうね。このまま朝まで寝られるとは思えないし…」
「腹も減ってるし…な」
何の気なしに小さくそうぼやくと、僅かな間の後…パインは小さく吹き出し、クスクス笑いを立て始めた。
「…何だよ？」
「それ、言うと思ったからさ。…だから夕方起きた時に何か作るって言ったのに…」
「それはまあ、そうなんだけど」
あの時はこの人をひと時でも手放したくなかったのだ。しかも半分寝ぼけていたし。
「しょうがないなぁ」
呆れていると言うより何だか密やかに愉しんでいるような口調でそう零すと、パインは腕の中からするりと抜け出した。
彼女が身を起こす寸前…頬を掠めるよう微かな温もりが触れたような気がして、瞬時驚きに身が縛された。
油断していたからはっきりと確認が出来なかったけれど、今のはもしかして…。
半ば唖然と見詰める先で、ベッドの上に座り込んだパインは身を解すように大きく伸びをする。
「…どうかしたか？」
視線に応えたのは、まるで何も無かったような台詞。
今のは気のせいだろうか。
「え？いや、別に…」
「まだ寝ぼけてるのか？シャワー浴びて来いよ。その間に何か作るから」
苦笑と共に軽い仕種で寝台を降りた彼女はベッドサイドのマキナランプを灯すと、スタスタとダイニングへ向かってしまう。
仄かな温みが残っているような気がして頬に手をやるが、己の手の感触の中に消えてしまった。
もし気のせいではないとしても彼女が素直に認める訳がないことに気が付いて、ギップルは苦笑を唇に張り付かせた。
明かりが溢れた部屋をぼんやりと見詰め、キッチンの方からの音を聞くとも無しに聞いていると、ふと笑みに摩り替わる。
漸く会えてから一緒に過ごした時間はほんの少しなのに四肢の先まで温かさが満ちているような、そんな感覚がする。
それを齎せるのはただ一人、彼女だけだ。
どうしてかと訊かれれば、ただ「好きだから」としか答えようがない。
心が軽くなって自然と笑みが溢れる感情をあれこれと難しく考える必要なんかないと思うから。
それが、君がここにいて
貴方がここにいると言うこと
終
ほんのり甘くて優しい時間。
久し振りの逢瀬だし、会ってすぐにガッツリ…も考えたんですけど（笑）
■10・教えてもらったこと：２００６１２２０：シアーズ