△０８・悪い夢
腕に抱いていても遠い。
彼女が果ての無い遠くを見詰めている先に何を見ているのか。
そして夢の中で…。
しゃくりあげるような吐息と共に痙攣したように腕の中の体が跳ねた。
ギップルはその感覚に眠りの園から弾き出されてしまった。
それくらいのことでは滅多に起きないと自覚していただけに、一瞬戸惑う。
だが、再び聞こえた…押し殺したような吐息に腕の中にいるパインの顔を覗き込んでみた。
思わず息を飲んだ。
閉じた瞼の隙間から涙が滲んで雫を容作っていた。
震える唇で何度も苦しげな息をついていた。
嫌な夢でも見ているのだろうか。
眠りの中にいる彼女を現実から助けてやることなど出来ない。
早々に現実世界に戻って貰う事以外は。
ギップルは抱き留めていた腕を解いて体を起こすと、パインの体を揺り動かそうと手を伸ばした。
触れようとした手が無意識に止まる。
微かに動いた唇が吐息のような声を紡いだ。
まるで子供が口にするような口調で、「行っちゃ、イヤ…」と。
その後に誰かの名を呼ぼうとしたのか、音も無く唇だけがそれを辿った。
泣きながら誰を引きとめようとしたのか。
普段の彼女では想像もつかない程に感情を剥き出しにした声で。
それは俺ではない、誰だか知らない奴に向けられていた。
男なのか女なのか。
…男だったら？
彼女の胸の奥に仄暗い影がこびり付いて離れないのは知っている。
時折その影に飲み込まれてしまう事も。
拭ってやりたくても容易に触れる事が出来ない。
過去を話したがらないパインの生い立ちなど知らない。
アカギの訓練で会う以前にどんな暮らしをしていたのかさえ。
その頃に一緒にいた誰かとの別れなのか。
思い出の中に眠るその人物に手も足も出ない事実。
「あんたは今でも、そいつのこと…」
…忘れられないんだよな。
たかが過去の遺物でしかない癖に、こんな風に夢の中にまで現れるなんて卑怯だとも思う。
今はこの腕の中にいるのにそんな夢を見るなんて、遣る瀬無い気分が込み上げる。
今すぐ引き剥がしたい。
影も姿も分からないモノから。
それに、この人が自分以外の人の為に涙を流す姿など見ていたくない。
ギップルはパインの体をそっと揺り動かす。
その瞬間、小さく震えた肢体。
「おい、大丈夫か？」
ゆっくりと濡れた緋色の瞳が現れていく。
目を凝らし怪訝そうに見詰めてくるのが分かった。
霞んでいるであろう目を擦ろうとした瞬間、驚いたように瞳が硬直する。
ギップルは苦笑を浮かべながらパインの目尻の指を伸ばして、そこに浮かぶ雫をそっと拭った。
「…私？」
何が起こっているのか分からないと言った様子で彼女は何度も瞬きを繰り返す。
その拍子に涙がポロポロと零れ落ちた。
「怖い夢でも見たか？」
考える間も無くパインは小さく頭を振る。
「覚えてない…」
少し困惑したように何度も視線を漂わせていく。
それを思い出そうとしているのだと分かって、それを遮るようにギップルはパインの髪をそっと撫で上げた。
優しく優しく銀糸の髪を梳いていく。
その感触が好きなのを知っていたから。
「目覚ましたら泣いてるし…」
パインは少し驚いたように瞳を部屋の方へと向けていく。
まだ夜が明けていないからマキナの明かりが部屋を小さく照らしているだけだ。
それに気が付いて彼女は小首を傾げるような仕種をした。
「…今日は雪か？」
「ば〜か」
…人の気も知らないで。
夢を見ていた事すら忘れているならそれでいい。
彼女の胸の中で燻り続けている記憶であっても。
過去の幻影に喧嘩を吹っかけても意味がないのだ。
ギップルはパインの額に唇を寄せた。
そして涙が煌いている目尻に…頬に。
少し擽ったそうに、はにかむ瞳が見詰めている。
悲しい思い出なら新しく塗り替えてやればいい。
そんな格好付けの考えとは裏腹に込み上げてくる嫉妬心。
その本質に刻まれた傷を癒す事も消す事も自分には出来ない。
忘れてしまえと言ったところで、簡単に叶うものでもないだろう。
ギップルはパインの体を腕の中に抱き込むと宥めるようにポンポンと背中を叩いた。
本当は自分がして欲しい仕種だったけど。
「何だか子供扱いっぽいぞ」
「大人扱いの方が良いか？」
温もりを求め合って、触れ合って、その存在を確かめる方が。
こんなに近くにいるのに、今は少し遠い。
直に触れる肌の感触を確かめるようにギップルは彼女が纏うパジャマの裾から手を差し入れる。
その瞬間にピクンと反応を示す体に思わず苦笑してしまった。
まっさらであった体にそれを教え込んでいったのは紛れも無く自分なのだと思い出したから。
「よせって…」
「大人の扱いがお望みみたいだからさ」
「な、何にもしなくていい。大人しく寝ろ。莫迦」
子供みたいに感情剥き出しの声で誰かを引き止めようとしていたのが嘘みたいに、素っ気無いお言葉。
グルグルと周り…膨らんでいく、向ける対象の分からない嫉妬。
でもそれを癒せるのが彼女自身なのだと言う事も分かっている。
ギップルは小さく微苦笑を浮かべて、パインの額に自分のそれを合わせた。
去っていく誰かを泣きながら引き止める夢など…もう見ないで欲しい。
夢からも守れる役目が負える腕だったらいいのに。
「あんたは、ここにいる…から」
もう悪い夢に攫われてしまわないように…と、おまじない。
パインには意味が分からなかったようで、不思議そうな眼差しで見返してくる。
訊いて見たい気もする。
でも、答えてなどくれないだろう。
夢を覚えていないと言うのが嘘だとしても。
「…ギップル」
「んっ？」
「今日はいくら寝ても大目に見てやる」
泣いていたところを見られて少し照れ臭い気分にでもなったのか、珍しく寛容なお言葉だった。
「どうせなら一緒に…が良いな」
「考えておく…」
こうやって温もりを感じながら一緒にまどろんでいたい。
パインはいつも早起きだから目覚める時まで傍にいる事が少ない。
早く起きない自分が悪いのだけど、次に目覚める時にも腕の中にいて欲しい。
「俺が目を覚ますまでいてくれる？」
「だから、考えておくってば」
相変わらず素っ気無いし冷たい。
ギップルは仕方なく溜息を付いてゆっくりと目を閉じた。
ややあって、微かに身じろいだ体が摺り寄ってくるのが分かった。
腕の中に潜り込んで、温もりを求めるように。
そして、そこが自身の居場所だと確かめるように。
ホッとしたような、全身の力を抜くような吐息が全てを溶かしていく気がした。
今度はちゃんと眠れるように…と、その背中を優しく叩いてみる。
「…ありがと」
小さな小さな吐息のような声が苦笑めいて、聞こえた。
終
捻りもせずに使ってみました。短編に逃げてＵＰ。捏造満載のパインの過去話もそのうち…。
△08・悪い夢：２００６０１１３：シアーズ