◎０８・からかってみただけ


「もう、あんたなんて嫌い」


　艶やかな唇が唐突に紡いだ言葉に、完全に思考が停止した。

　…い、今…何て言った？

　頬が引き攣って硬直したままに真意を確かめるべく見詰めていると、緋色の瞳が真剣な色を帯びてゆっくりと瞬いた。
　そこに感情は何も見えなくて、血の気が引く。

　何かを言わなければ…と思うのに、頭が真っ白で何も出て来ない。
　嚥下をした音が耳障りなくらいに良く聞こえた。


「あんたより好きな人が出来たんだ」


　二度目の衝撃に心臓が凍りつくような感覚が襲った。
　全身が強張って震えさえ走る。
　色んな事を考えているはずなのに、思考が麻痺して捉えきれない。

　ギップルは無意識のうちに指先で煙草の箱を探していた。



　言葉も出ないままに見詰めていたその先で、急激に細まった赤い瞳。
　それはどこか悪戯っぽい微苦笑だった。



「…って言われるの、どっちがショックだ？」



　先程とは違って探るようにじっと見詰めてくる眼差し。
　一瞬、状況が把握出来ずにいたが、やがて…今のどちらの台詞も彼女の本気ではなかった事に気が付いた。



　要するに、からかわれたのだ。


　…こ、この！


　弾けた怒り。
　頭の中に渦巻いた罵詈雑言。

　奥歯噛み締めて堪えたが呻きが洩れた。


「あんたなあ…」


　極度の緊張が一気に緩み、涙が滲み出そうだった。


　低く零れ落ちた声にパインは、驚いたように瞳を瞠った。
　そして、困ったような苦笑を浮かべる。


「泣くなよ。莫迦。冗談だってば…」
「タチ悪過ぎだ！」



「ごめん」

　指先がそっと額を撫で、頬を掠めていく。
　宥めるような優しい仕種で。

　後悔を浮かべた瞳が、微かな苦笑を貼り付けた唇が、ゆっくりと近づいて、離れた。


　頬に小さな温もり一つ残して。


　驚きに満たされ、鎮められてしまった怒り。

　己の単純さに内心苦笑しながら、ギップルは態と声音を低めて問いかける。
　簡単に機嫌が取れると思われるのは、ちょっとばかり癪に障るからだ。


「こんな事で許されると思ってんのかよ？」


　ふと揺らいだ赤い瞳。


「まだ怒ってるのか？」
「当たり前だろ？」


「困ったな…」


　そう呟いたパインは軽い溜息まじりに小さく笑う。
　口で言う程に困っていないのが見て取れる。



　今度は唇に触れた吐息。


　これで報われたと思ってしまうんだから、惚れた弱みってやつは何とも厄介だ。



　はにかむような微笑みの後で、パインはちょっと真顔に戻って問いてくる。

「…で？どっちがショックだった？」



　…なあ、おい。ホントにからかってるだけだよな？



終



まだ気抜け状態からリハビリ中〜（苦笑）
◎08・からかってみただけ：２００５１２２３：シアーズ