◎０６・隠し切れないよ
開け放たれた窓から湿気を孕んだ微風が入り込み、やわらかにカーテンを揺らす。
遠くから聞こえる潮音に掻き消されてしまうほどに、淡く響かせて雨が降っている。
視線を上げて投じた窓の外の世界は、どこか陰鬱さ漂わせながらしっとりと濡れていた。
何となく気分が落ち着かないのが雨のせいではないのは、分かっていた。
でも、黙ったままでいると意識が引きづられそうになるからそれを理由に口を開く。
「まだ降ってる」
ぼやきめいた呟きに小さく苦笑された気配がした。
「いつものことだろ？」
足元から聞こえてきた声に思わず同意してしまうほど、何故か二人で過ごす時は雨が降ることが多い。
朝から晴天であっても通り雨に遭遇したり、こんな風に重く垂れ込める雲が続く地雨だったり。
実際に数えたことがないけれど、確率七割といったところではないだろうか。
「ったく、雨男のせいだ」
「いつも俺のせいにするけど、お互い様ってことじゃねえの？」
「じゃあ、相性が悪いせいだな」
パインは手にしていた本へと視線を戻しながら、軽く溜息をついた。
「俺は雨の日の方がスキンシップ度増して嬉しいけど？」
相変わらずの軽い調子でギップルは笑う。
都合の良い解釈はこの男の十八番だ。
どんな状況下でも前向きに捉えようとする姿勢は羨ましくもある。
でも時々癇に障って無性に腹立たしくなることもあるけれど。
爪先を掠めた感触に、無意識に逃れようと脚が小さく震えた。
途端に足を捕らえていた温かな手に力が篭る。
「こら、大人しくしろって」
「くすぐったいんってば」
お陰で先程から文字を辿ることに集中出来ない。
不快ではないけれど、落ち着かない。
クッションを添えて座り心地を調整したソファに凭れてからどれくらい経っただろう。
「もうちょっと我慢して」
「はいはい」
お座なりの返事を気にした様子もなく、ギップルは作業を再開している。
手にしていた本を胸元に伏せて窺うと、丁寧な仕種で小さな小さな筆を動かしていた。
投げ出した私の足を膝の上に抱え込んで。
鼻歌混じりに、爪に色を塗っている。
「…楽しいのか？」
「もっちろん」
浮かれた調子の即答だった。
そのくせ、液を纏わせて動かす動作は揺るがない。
当初の予定では幻光河に出かけるはずだったのだが、ここ暫く降り続く雨にどちらともなく部屋で過ごすことを選んだ。
どこかに出かけることに固執しなくなったのは良い傾向なのか、それとも逆なのかは分からないけれど。
お茶を飲みながら他愛の無い話を交わし、時にボードゲームを楽しんで。
互いに全く違うことをしてみたり、雨音を聞きながら一緒にベッドの中で過ごすことも。
今日は、ずっとやってみたかったのだとギップルは私の爪を塗り出した。
「パイン先生の小指の爪…ちっちゃいよなあ。塗るトコないくらい」
そんなささやかな発見さえ嬉しいのか愉しそうに響く声。
「無理して塗る必要はないだろ？」
「どうせならちゃんと全部に色付けたいし…」
ギップルは塗り易いように足の角度を変えて、慎重に色を乗せていく。
鮮やかなラズベリーの色を。
塗る毎にそっと息を吹きかけるのは止めて欲しいのだが、既に聞く耳は無い。
この男は嫌がることを嬉々としてやりたがる。
淡くざわめいた肌を宥めるべく、パインはそっと息を付いてみる。
再び手にした本は片手に数えるほどしかページが進まない。
大地をしっとりと潤していく雨垂れの音も遠い。
時の流れを知らしめる針の音よりも僅か早く、鼓動が刻んでいく。
「出来た…っと」
至極満足そうな声。
そして、吐息と軽い感触が足の甲に触れた。
その瞬間、肌に甘い痺れが走り、胸には面映さにも似たものが込み上げた。
軽い眩暈にも似た衝動をやり過ごそうとした刹那、顔を上げて投じられた眼差しとかち合ってしまった。
体の奥から滲み湧いたモノを覗かれてしまったような気がして、パインは思わず視線を逸らした。
頬に熱が帯び始め、鼓動が忙しなくなっていく。
「…どう？綺麗に仕上がっただろ？」
頭を素通りしそうになった言葉を繋ぎとめて反芻した後…ちらりと窺ってみる。
そこにあったのは、褒めてくれないの？とでも言うような表情。
…気の、せい？
「え？あ、うん」
拍子抜けした感に曖昧な答えになってしまったが、彼はちょっと得意げに笑みを零した。
ギップルはあっさりと私の足を自由にして小瓶を手際良く片付けていく。
それが終わると、傍までやってきてソファに腰を下ろし、未だ投げ出したままの足先を眺めて満足そうに頷いている。
「やっぱりこの色にして正解」
「そう、かな」
まだ残る猜疑心と、それに伴う気恥ずかしさに、どうも言葉が上手く出てこない。
無防備なままだった手を取られ、心拍数が一気に跳ね上がった。
「…なに？手も、塗りたいのか？」
ぎこちなく零れた声は僅かに上擦っていた。
「やって欲しい？」
ただその行為を嫌ではなかったから好きにさせていただけであって、それを望んだ訳ではない。
「べ、別に…」
「じゃあ、何して欲しい？」
「え？」
「だからさ。何かしたいとか、して欲しいこととか…」
渦を描く文様がはっきりと分かるほどの距離から窺う眼差し。
それほど力を入れられていないはずなのに動きを戒める温もりに。
指のカタチを辿るようにそっと撫でられる感触に。
思考が空回り、焦りが満ちた。
瞳が瞬く度に薄闇の帳が瞬時…視世界を覆う。
本能がザワザワと耳の奥で囁き、声帯を揺るがそうとするのを理性が制する。
葛藤の摩擦熱が羞恥となって体温を上げる。
「の、喉渇いたから、お茶…淹れて貰える？」
それは幾つかある中での一番ではないだけで、嘘ではなかった。
先程から急激に口の中が渇いていく感じがするのだ。
一つだけの緑の瞳に小さな微苦笑が浮かび、それは面差しに満ちた。
「分かった」
答えと共に小さな温もりが頬に寄せられて、するりと感触の名残を残して手が離れていく。
安堵に入り混じる違う感情が皮膚をざわめかせる。
頭の中で必死に言い訳をしてそれを宥めようとするが、効き目は遅い。
先走った想像に自嘲を刷きかけた時、吐息が僅かに耳朶を掠めた。
「…お茶の後で、な？」
鼓動が、跳ねた。
小さな囁きは私の深い部分に甘く浸透し、目に見えぬ彩が肌を染め上げる。
反射的に微かに強張り震えたことを、この男が見落とすはずがない。
気のせいではなかったのだと今更気が付いても、もう遅い。
誤魔化すことすら出来ずに視線を彷徨わせると、苦笑めいた大気の震えを感じた。
彼が真意了承したのは…
隠し切れなかった、シグナル。
終
「隠し切れないよ」ではなく、「隠し切れなかったよ」って感じがする。
１００題に引き続きの爪ネタです。手でなく足なのは、足の爪を塗る方が………な気がするだから（苦笑）
最初はフットケア付きだったんですけど、長くなりすぎたので已む無く削除（笑）
◎06隠し切れないよ２００６０６１２：シアーズ