▼０１・荒れたくない



　銀時計を取り出して確認すると、出航の時刻が迫っていることが知れた。
　既に慣れた仕種で蓋を閉じて椅子から立ち上がると、目の前から窺うような視線が投げかけられた。

「ねえ…パイン、もうちょっと待たない？」
「待つ理由は無いだろ？」
「でも、ほらっ、もしかして…って事もあるでしょ？」

　どうやらユウナは説得を試みたいようだが、もう気持ちは固まっている。
　パインは落ち着かない様子の彼女に苦笑を返した。

「それだったらここで待っても、乗船していても同じだろ？」

　そう答えながら身を屈めて足元に置いた荷物を取り上げたのは、彼女の困った顔を見たくなかったからだ。
　同情や励ましは…時として残酷な言葉になるのだと、優しい彼女は気が付いていないだろうから。





　もしかして…なんて、有りはしない。
　どんなに待っていたって、あいつは来ない。



　その連絡を受けた時は色んな事を考えた。

　落胆も感じたし、憤りも覚えた。
　申し訳なさそうに話をする男の顔に向けて詰りを浴びせそうになったけれど、皮肉一つで我慢することにした。

　責めたところで現状が変わる訳ではなかったから。


『まあ、気ままに一人旅って言うのも良いかもね』

　本当なら、全てを飲み込んで「仕方ないね」と言ってあげるべきだったのかもしれないけれど。
　已む無くジョゼに足止めを食らう彼の気持ちが分からない訳ではなかったけれど。

　でも、私だって本当に楽しみにしていたから。


　皮肉を食らった瞬間、あの男は不満そうに眉間に皺を寄せた。

　とばっちりはこの状況を引き起こしたヤツが受けるのだろうが、知ったことではない。
　正直、その時はそんな気持ちだった。


『絶対。後から絶対行くから』

　必死な顔をしてそう訴えられても、どう答えて良いのか分からなかった。

　絶対…なんて、どこにも有りはしないのに。
　叶う保障がどこにあると言うのだろう。

　待っていて欲しい…と、言葉の容が無いままに押し付けられた彼の勝手な願望。
　私はそれに頷くことすら出来なかった。





「ねえ…ユウナ。お土産は何が良い？あっちはハーブの産地らしいから石鹸とか化粧水なんかどうかな？」

　ポートに向かって並んで歩きながら、パインは俯き加減のユウナの顔を覗き込んだ。

「え？なに？」

　どうやら上の空だったらしく、色違いの瞳がキョトンと見開かれる。

　何だか自分よりユウナの方が余程気落ちしている感じがする。
　リュックは「何それ、信じられない！」と怒りを爆発させていた。
　アニキやダチまでもが、まるで腫れ物に触るように接してきた。

　優しい優しい仲間たち。


　だから私は…


「お土産の話。蜂蜜とかワインも有名らしいし…そっちが良い？」
「別にそんなこと、気にしなくて良いっすよ？」
「そうはいかないだろ？五日も休暇貰うんだし…」
「今日と明日は全員オフなんだから数に入れなくて良いと思うけど？」
「じゃあ、三日分で換算しておくよ」


　だから私は、大したことではないかのように振舞わなければならなくなる。
　整理の付かない感情を深くに沈み込ませて。


　怒れば良かったのか。
　嘆くべきだったのか。

　恐らくどちらの権利もあったのだろうけれど、どうしても出来なかった。


「ねえ、パイン。何かあったら連絡してね」
「何かって？」
「えっと…私たちの手が必要になったら、かな」
「多分無いと思うけど、一応覚えておくよ」

　顔を軽く顰めたその眼差しが、意地っ張り…と語ったが、気がつかないフリをした。
　僅かな沈黙を遮って、パインは小さく苦笑を刷いてみせた。

「…行ってきます」

　見送ってくれるユウナの声を背中に聞きながら、歩く度に軋む音を立てる船への渡り板を進む。

　ふと仰ぎ見た空はどこまでも青く、風も穏やかだった。
　思わず皮肉めいた苦笑が浮かぶくらいに良い天気だ。

　船に乗り込んで、まだユウナがポートにいると分かっていたけれど振り返らなかった。
　その姿の向こうに視線を彷徨わせてしまいそうだったから。



　船員に案内されて入った個室は思っていたよりも広く感じた。
　空間を埋めるには足りないパーツ。
　それを補うようにチラチラと頭の中に過ぎり出した影が鬱陶しい。
　そんなモノは見たくないのに、何故…勝手に描こうとするのだろう。

　パインは後ろ手に閉めた扉に寄りかかり、誰一人、何一つ入って来ないようにドアノブを強く握り締めた。
　自分の脆さが幻を招くことがないように。
　きつく瞼を閉じ、息を殺して。

　どんなに否定の言葉を繰り返しても消し去ることが出来なかった淡い期待が、叶わなかったのだと分かるまで。
　漸く一人になれたのだと実感するまで。



　やがて、深い吐息が淡い明かりに照らされた船室に溶けた。



終



一人寂しくお出かけのパイン編。
これでは「荒れたくない」ではなく「荒れられない」かな？最近、お題と話が噛み合ってない気がします（苦笑）
一応…夏限定バカンス話なのですが、果たして夏中に終わるかどうか（汗）
▼01・荒れたくない：２００６０７２３：シアーズ