△０１・アカギ候補生
窓の向こうのには雲ひとつない青い空が広がっていた。
傾き始めた陽の光が街並みの合間に見える海をキラキラと輝かせている。
賑やかなルカの繁華街から離れている場所であるせいか、風に運ばれてくる喧騒も遠い。
緩やかに流れる時間の中、気の合う友人たちと他愛のない話をしながら冷えたビールを口にしているだけで、贅沢をしている気分になってくる。
パインは何の気なしに取り上げたスタイニーボトルがだいぶ軽くなっていることに気がついた。
それは隣りに座っていたヌージも同じだったらしく、彼は呷るように飲み干したボトルをテーブルへと置いた。
「もう一本取って来る？」
「いや。今はやめておこう。これから一仕事あるからな」
「一仕事？」
問い返すと、ヌージは悪戯っぽく笑みを刷いた。
「晩餐の準備だ」
「準備って…まさか料理ってこと？」
このコンドミニアムにはレストランも併設されているが、目立つことこの上ない顔ぶれだからルームサービスを利用するのだとばかり思っていたのに。
「そのまさかだ。食材は厨房に頼んでおいてある」
聞けば、部屋で調理をする客向けにオーダーした食材を届けてくれるサービスがあるのだとか。
街で購入するより些か値は張るが、質の良い食材を必要な量だけ届けて貰えるし、メニューに合わせた調味料まで用意してくれると言うのだから至れり尽くせりだ。
しかし、作るところから始めるとなると悠長に構えている場合ではないではないだろうか。
「そう言うことなら早く始めた方が良いんじゃない？」
「お前はのんびりしていて構わないぞ」
「何で？皆で作るんじゃないの？」
「良いんだよ、パイン。今夜の食事は僕たちで作るから」
向かいのソファーからのバラライの声に視線を投げかければ、その隣りでギップルまでもが頷いていた。
「そっ、折角の機会だから日ごろの感謝を込めてパイン先生にごちそうしようってことになったんだ」
感謝だとかごちそうだとかの意味が飲み込めず、パインは首を傾げた。
「えっと…つまりは、料理は三人でするってこと？日ごろも何も、別に感謝されるようなことなんてしてないけど」
困惑をそのままに眉根を寄せれば三人は互いに顔を見合わせ、揃って苦笑する。
「君のことだからそう言うと思ったよ」
「その辺りの細かいことは気にするな」
「そうそう、そう言う名目の趣向なんだから」
趣向と表現するからには彼らがその工程を愉しむつもりの計画なのだろうけれど、感謝云々などと気が引けるような名目はやめて貰いたいものだ。
「いつの間にそんな話になっていたんだ？」
「今回、集まることが決まった時からだな」
「そんなに前から？」
折角の機会なのだから四人集まろうと言う話になったのは半年近く前のことだ。
とは言え、ブリッツボールの祭典が行われる最中。既にルカ中の宿泊施設はどこも満室状態だろうと思っていたのにあっさりと場所を告げられて驚いたのを覚えている。
「僕はギップルがずっとパインに黙っていられたことが奇跡だと思ってるよ」
「よく言うぜ。散々脅しをかけたくせに。オマケにそうとは悟られないようにリクエストを訊けなんて無理難題押しつけやがって」
「別に僕がその役目を仰せつかっても良かったんだけど？パインの好みは良く知ってるしね」
にこりと笑ったバラライに向けてギップルが顰め面をしているのを捉えてはいたが、パインの意識の殆どは思考に飲み込まれていた。
このサプライズを素直に喜ぶべきか、否か。
スピラの舵取りを担っている三巨頭に料理を振舞って貰うなど傍から見れば恐縮な話だろうが、正直なところ気分は複雑。
何故なら、彼らが料理をする姿なんて嘗ての野営で煮炊きしている光景でしか思い描けなかったからだ。
あれから歳月は経っているし、取り巻く環境も激変している。
とは言え、彼らの立場からして舌が肥えるような食事をしていても自炊など殆どしていないだろうし、色々と不安な面も残る。
自分だってそれなりにと言う程度なのだから、決して偉そうなことは言えるような立場ではないけれど。
「俺たちだけじゃ、不安か？」
ヌージに指摘されてしまうくらい顔に出ていたらしい。
「と言うか、訓練の時に食べたものを思い出しただけ」
曖昧な回答に、あぁ…と呟いて困ったように彼が苦笑したのは、同じように思い出したからだろう。
「あの頃よりはマシなものを出せると思うぞ。素材も格段に良いしな」
言われてみれば確かに彼らの腕以前に野営用の食材自体にも問題があったかもしれない。
中でも一番酷かったのが、硬くてそのまま食すには困難な…明らかに質の悪い干し肉だった。
スープにするにも独特の臭みが他の具材を台無ししてしまうほどで、周囲に匂いをまき散らすことになるが生姜や大蒜を大量に入れるか、いっそのこと肉抜きにするか、大真面目に議論したこともあったくらいだ。
「腕だってちゃんと上達してるよ？」
「パイン先生に食べて貰うんだからちゃんと美味いもの作るって」
別に彼らのことを全く信用していない訳ではない。
彼らに対する信頼と想像への不安を天秤にかければ、最終的には前者の方に傾いて落ち着くようになっている。それが、彼らとの関係の大前提なのだから。
表現方法は裏返しであるけれど。
「まあ、食材が良いなら他に多少問題があっても大丈夫か…」
大げさな溜息交じりの呟きを零すと、再び三つの苦笑が重なった。
………
届けられた食材は魚介や肉、野菜、フルーツ、何でも揃っていて、一体何品作るのかと思うくらいに多種多様、且つ、豪勢でもあった。
タイムやローリエなどのハーブ類まで使うような本格的な料理であるらしく、添えられていたレシピは厨房仕様なのではないだろうか。
「こっちは焼き立ての方が良いだろうけど、これは冷めても美味しいはずだし先に作っておいても良いよね」
「これって暫く味をなじませておかなきゃならないんだろ？だったらこれが一番先じゃね？」
「火は一度に使えないんだし、鍋やフライパンの数も考えろ」
顔を突き合わせて意見し合う姿は真剣にスピラの行く末を語り合っているようにも見える。音声がなければの話だが。
彼らが数枚のレシピを覗き込みながら料理の段取りを決めているなど奇妙な光景だと思う一方で、今のスピラは平和なんだなと妙な実感も湧いてくる。
パインはソファーに凭れながら複雑な心境をそのまま唇に刷いた。
正直なところ特別扱いをされるのは…名目だけとは言え…むずがゆいし、一人手持ち無沙汰でいるのも落ち着かない。
けれど、三人が一緒にいる姿を眺めていると懐かしさが込み上げてくる。
今では素直に振り返ることの出来る記憶だ。
あの頃は当たり前だった。いつの間にかそう感じていた光景だった。
勿論、最初からそうだった訳ではない。
訓練が始まったばかりの頃は、候補生たちが訓練を行っている光景をただ見詰めているに過ぎなかった。
記録係として「傍観者」でなければならなかったのもあるけれど、私自身が距離をとっていたのも事実だ。
それは彼らにしても同じだったかもしれない。
ヌージは記録係の存在など関心の無い様子であったし、バラライはどう接するべきなのか窺っているようだった。
ギップルには…と、ふいに脳裏に過ぎった過去の断片にパインは思わず小さく苦笑を零した。
彼には、記録係は寺院の監察官の回し者だと…あながち間違いではなかったけれど…かなり警戒されていたのだ。
けれど、キャンプ地から離れての訓練や野営ともなれば、感情や思惑を抜きにして四人で協力し合わなければならない事態にも遭遇する。
共に過ごしていればそれぞれの存在に興味も抱くし、次第に気心も知れて情も湧く。
お互いに信頼を寄せ合い、絆を深めるに至るまでは色んなことがあったけれど。
いつの頃からかファインダーの中に三人の姿が納まっていることに安堵を覚えていた。そして、幾許かの羨ましさも。
「退屈？」
記憶と現の狭間を行ったり来たりしているといつの間にか傍までやって来ていたバラライが声をかけてきた。余程ぼんやりとしていたらしい。
「そうでもないよ。ただ、スフィアカメラが無いのが残念かなって…」
「プライベートショットは高いよ？」
彼は肩を竦めながら小さく笑うと手にしていたグラスを目の前のテーブルへと置いた。どう見ても中身がただの水には見えない。
「ワイン？もう開けたのか？」
「料理に使うついでに…だって」
彼が示す方へと視線を向けてみれば、カウンターではギップルはグラス片手にオリーブオイルを注いでいるし、同じ格好のヌージはキッチンで何やら焼いているようだ。
飲んでもザルの連中なのは知っているけれど…。
「ホントに任せて大丈夫なのか？」
懸念をたっぷり込めて訊いているのだがバラライは、くつくつと喉の奥で笑った。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。愛情込めてちゃんと作るから」
「恥ずかしいこと言うのやめてくれる？」
「じゃあ、感謝を込めてかな」
「だから…」
「バラライ、サボってんじゃねえよ」
眉間の皺と共に言い募るよりも先に、ギップルの尖った声が飛んできた。
バラライは咄嗟に身を竦めたが、些か態とらしい仕種な上に顔は悪戯っぽく笑みを刷いたままだ。ギップルからは見えないだろうけれど。
「退屈そうな姫君にワインをお届けに来ただけなのに。ねぇ？」
拗ねたような声音で訴えられても胡散臭ささが滲み出ていて同情する気にもなれない。
「誰が姫だ。莫迦。…戻らないとペッパーミルが飛んできそうだぞ？」
ギップルが視線をこちらに向けたままガリガリと胡椒を挽いているのを指して言うと、バラライは可笑しさが耐えきれなかったかのように肩を震わせた。
「そうみたいだね。味付けが心配になってきたから、そろそろ戻るよ」
ちっとも悪びれない呑気な様子に思わず溜息が零れる。この食わせ者にはベベルの僧官や議員たちも手を焼いていることだろう。
立ち去りかけたバラライがふと思いだしたように、ああ…と小さく声をあげて足を止め、振り返った。
今度は何だと思わず身構えてしまったのは、自分が臆病だからではないはずだ。
だが見上げた視線が捉えたのは、性質の悪さからは程遠い、やわらかな微笑だった。
いかに彼が巧妙であろうと本物か作られたモノかの見分けは付く。今は間違いなく前者だ。
「…僕たちが君に感謝してるって言うのはホントだからね」
パインは琥珀色の眼差しを見返したまま動けなかった。ほんの瞬きひとつのことだけれど。
「それは名目、だろ？」
「うん。だけど、その気持ちが有るからこその名目だから」
えっと…と、ひとつ前置きをして言われた台詞を巻き戻してみる。それでもやっぱり良く分からない。
先にも言ったけれど、彼らに感謝されるようなことなど何もしてはいないのだから。
幾度かの瞬きを繰り返していた合間に、バラライはゆるりと目を細めた。
「…君がいてくれたから、僕らは今…こうしていられるんだよ」
「何を…」
大げさな、と反論する間も与えずにバラライは「そう言うことだから、ゆっくり寛いでいてね」と言い残して踵を返してしまう。
何がそう言うことなのかも理解できないまま半ば呆然と視線で追った背中の向こうに、小さな苦笑が二つ浮かんでいた。
終
（今までずっと告げたことはなかったけれど、ありがとう）
パインに対して抱く感情のカタチはそれぞれ異なるけれど、三人にとって彼女が特別な存在であることにはかわりはないと思います。
彼らの料理の腕は、…うーん、意外と盟主が一番上手かったりして（笑）
最後の最後にお題を変えないで済むようになりたいデス。
△０１・アカギ候補生：２０１００３２５：シアーズ