９８・ピアニッシモ


　見晴台の柵に凭れて白波の立つ海を眺めているその丸めた背中は、心なしかいつもより小さく見えた。

　…ったく、ガキが。

　込み上げた内心の声は嘲笑めいてはいるが、決して見下しているつもりはない。
　ある意味羨ましいと思う事すらある。
　その真っ直ぐさに、熱さに、そして…青臭いところも。


「行ったぞ」

「…ああ」


　心ここに在らずと言ったような、曖昧な返事だった。
　誰が、どこに…と明確にしなくても、伝わっている事だけは分かる。

　普段は陽気でお調子者だが、どこか物事を冷めた目で見ているドライな部分を兼ね備えている。
　大人のようで、子供のようで。
　そのアンバランスさがこの男の持ち味なのかもしれない。
　どうやら、恋と言うものに陥ると、こんな男でもそれしか見えなくなるらしい。

「お前も帰るんだろう？」
　ヌージは動こうとしない背中にそう投げかけながら、その隣りへと歩み寄る。
「お代…貰ってねえもん」

　依頼した仕事の代金は、担当の係官から渡される。
　何度もそうしてきたこの男が分からないはずがない。

　要するに、大きな体をしたお子様は拗ねているだけなのだ。
　昨晩からずっと、想い人に避けられていて。


「ガキ…」
「…どうせね」


　自覚があるなら結構だが、少々鬱陶しい。


　その横顔を見やれば、隻眼の瞳を遠くに投じたまま…幾度か瞬きを繰り返す。
　ヌージは小さく鼻で笑って、咥えた煙草に火を付けた。
　それに気が付いたギップルは、おや？…と言うような顔をして初めてこちらへと視線を向けた。

「…旦那。禁煙中じゃねえの？」
「誰がそんな事言った？」

　紫煙をくゆらせながら口の端を微かに持ち上げると、ギップルは呆れたような苦笑を零した。

「まあ…良いけどね」

　ギップルは指先で吸いかけの煙草を掠め取ると、慣れた仕種で咥えていく。
　それが戻って来ない事が分かっていたヌージは、再び咥えた煙草に火を点す。

　吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出して…呟いた。




「玉砕か？」

　ギップルはまるで深呼吸をするようにゆっくりとそれを味わうと、口許に小さな自嘲を刷いた。

「砕けちゃいねえよ」

　ヌージは込み上げた笑いに小さく肩を震わせて、先程までギップルが眺めていた海へと視線を投じる。
　…手のかかる奴らだ。
　頼んだ荷を持ってベベルへと向かった元記録係も然り。





　出発と知らせる為に執務室にやってきたパインは、扉を開けた途端に部屋の中に視線を走らせていた。
　誰を探しているのか、若しくは…いない事を確かめたのか、ヌージには直ぐに分かった。

「今からベベルに向かうから、バラライに連絡しておいてくれる？」
「ああ。…今度来た時は酒まで付き合えよ」
「あ、うん。悪いね。アニラに誘われたものだから」

　誘われたからと言って、初対面の者と向かい合って過ごすなど…警戒心の強い猫のようなパインが容易にするはずもない。

　ヌージはその選択の理由に幾つかの心当たりがあったが、敢えて口にしなかった。

「折角…お前の為にキーリカの美味い酒を仕入れてきたって言うのに」
「今度、楽しみにしているよ」

　パインはそっと肩を竦める仕種をすると、じゃあね…と軽く挨拶をして踵を返した。

　まるで逃げ出さんばかりの、素っ気無い態度。
　昨日、からかったのが尾を引いているのだろう。

　ヌージはその背中に声をかけた。

「…パイン」
「何？…まだ何かあった？」

　ドアノブの手をかけたまま振り返ったパインは、訝しげに首を傾げる。


「奴を送ってやらんのか？」


　その言葉に赤い瞳が揺らいだかと思うと、一瞬にして無機質な石のような冷ややかさを帯びた。

「子供じゃないんだ。勝手に帰るだろ？」

　その感情を押し殺す様は条件反射かもしれない。
　まるでその奥に秘めた熱さを押し隠すかのように。
　冷めているようで、熱いようで。

　本人は鉄壁の守りのつもりのようだが、隙だらけでどこを突いてやろうかと…悪戯心を擽られる。

　だが、その隙を閉じた扉が塞ぐ。
　それは、また今度…となるようだった。





「あっ！いたいた！ギップルさん！」

　言葉を交える事も無く…互いに紫煙をくゆらせていると、突然甲高い声が投げかけられた。
　振り返るとエルマが見晴台の入り口で手を振っていた。

「どうした？」
「出納係が探してました。行ってあげて下さいね。伝えましたよ！」

　ただそれだけ告げると、エルマは返事も聞かずにバタバタと走り去っていく。

　…相変わらず、慌しいヤツだ。

　ギップルも同じ事を思ったのだろう、小さく噴出して…そして肩を震わせた。
　一頻り笑ったギップルは短くなった煙草を咥えて、大きく伸びをする。


「さてっ。俺もお代を貰って…帰るとしますか」


　前向きで打たれ強いのがこの男の長所なのだろう。

「…ああ、そう言えば」

　ヌージは残り少ない煙草を吸って、思い出したように呟く。

「へっ？」

「割増分は…ツケにしておいてくれ」

　ケホッっと咽たのは煙のせいか、それとも…

「そ、そりゃねえよ！こっちは異界目前だったんだぜ？」
「一度行っただろう？」
「それと、これとは別だ！」

　大人なようで、子供のようで。
　冷めているようで、熱いようで。

　古い絆の上に芽生えた狭間の感情。
　それがどんな花を咲かせるのか眺めているのも悪くない。
　お節介は性分ではないはずだが

　…まあ、退屈はしないしな。

　ギップルの喚き声に苦笑を刷きながら、ヌージは煙草の火を揉み消した。



終


密やかな楽しみ…と言う事でこのお題。
お題98・ピアニッシモ：２００５０１０９：シアーズ