96・もしも


 美味い料理だと思う。

 でも、何かが足りない。
 そんな気がしてしまうのは、目の前の空席のせいだろう。

 味わうと言うよりは、ただ黙々と口の中に入れ込んで腹を満たす。
 張り詰めた緊張感は消え失せていたが、やはり…互いに気まずい気分は拭えない。
 男二人がそんな状態で一緒に飯を食っている…と言うのは、客観的に見れば滑稽な姿なのかもしれない。




 食後の珈琲が運ばれてきて、ギップルは咥えた煙草に火を付けた。

「…さて、どうしようね?」


 まるでそれを待っていたかのように、バラライが問いてくる。
「どうすっかな」

 何を…かは、態々口にしなくてお互い分かりきっている事だ。
 その為にはまず…どうすれば良いのかも。


 あの瞬間、彼女の無防備過ぎる言葉に腹が立った。
 こっちの気持ちを知りながら他の男の部屋に行くなど、どう言うつもりだ…と。

 だが、冷えた頭でよくよく思い出してみれば分かる事。
 彼女は思春期以前の子供並みに、そう言う感情に疎いのだ。

 いや…それは語弊があるかもしれない。

 自分に恋愛的な感情が向けられている…と言う事に疎いのだ。


 パインの中では自分たちは「仲間」以上でも以下でも、それ以外でもない。
 そこに男も女も存在しないのだ。


「意見があるなら聞こうか?」
「二人揃って、ごめんなさい…ってすりゃ良いんだろ?」
「そう単純にいくと思う?そもそも…君は何で彼女が怒ったか分かってる?」
 バラライは顔を顰めながら懐疑的な視線を送ってくる。

「突っ撥ねたからだろ?」

 そう答えた瞬間、カップを口に運ぼうとしていたバラライの手が止まった。
 どうやら同じ答えに行き着いていたらしい。

「…多分ね」

 カップの中へと落とされていく眼差し。



 あの瞬間、自分たちは彼女の存在と意思を拒絶した。

 パインが怒った理由はそこだろうと思っている。
 まだどちらかが理性と寛容を見失っていなければ、違う結果になっていたかもしれないが。


 だがそれはもしも…と言う仮定に過ぎない。


 既に起きてしまった事を思い返して悔やみ続けていても、あの瞬間を取り戻す事など出来ないのだ。
 だから考えなければならないのは、これからどうするか…だ。


 彼女を傷つけた。
 後悔しているし、反省もしている。
 だから、謝る。


 許して貰えるかどうかは別として…だが。


「…とは言っても実際問題。一緒に頭下げに行くのは無理だよな」
「すぐに、と言われればね」
「そんな悠長に構えてられねえんだよ。俺は…な」


「君の都合に合わせる理由なんて、僕にはないけど?」

 バラライは微かに上がった口角を隠すように、お茶を一口飲んだ。


 小さな燻りの熱が胸の奥をジワリと撫でる。
 それが燃え広がる前に、ギップルは煙草の煙に混ぜ込んで吐き出した。


「だったら、ここで大人しく待ってれば良いさ」

 琥珀色の双眸に剣呑な色が宿るのが見えた。


「パインじゃないけど、お茶…ぶち撒けたくなっちゃった」
「珈琲浴びたくなかったら我慢しろって」


「それもそうだね」
 バラライは澄ました顔をして、小さく肩を竦めた。

「だろ?」
 ギップルは指先で煙草は弾いて灰を落としながら、同じような仕種を返した。




「元はと言えば、ギップルが怒るからいけないんだよ」
「惚れた女が他の男の部屋に行くなんて、黙って聞いてられっかよ」
「惚れた女…ね。すっかり開き直ってるし」
「今更、隠したってしょうがねえだろ?そう言うあんたはどうなんだよ」


 バラライは微かに瞳を細めて、口を噤むように押し黙ってしまった。
 焦点の曖昧な眼差しが、新たに水が注がれたグラスへと向けられていく。



「…大切な存在だよ。でも、君が考えているような好きとは違う」

「よく分かんねえよ」
「そうだろうね」
 バラライはあっさりとそう肯定して、視線を上げると小さな苦笑を口許に刷いた。


「それってさ…」


 目下の恋敵に面と向かって訊くのは少々気が引けたが、ギップルはどうしても訊いてみたくなった。

「…欲しいとは思っていないって事か?」
「違うって答えたら、君…諦めてくれる?」

「そんな事出来っこねえだろ?第一、決定権を持ってんのは俺じゃない。パイン先生だ」

 驚いたように、瞠られた琥珀色の瞳がマジマジとこちらを見詰めた。

「…意外と、冷静なんだね」
「意外は余計だ」



 そうは言ってみたものの、ただ…身動きが取れなくなってしまっただけなのかもしれない。
 追えば逃げられるのだと分かってしまったから。
 抱き上げようとした猫は、それを拒むように逃げ出してしまった。
 でもほんの少し離れたところから、こちらを窺っている。


 窺ったまま動かない。


 だから、こちらも動けない。


 再び手を伸ばしたら、引っ掻かれるかもしれないし、遠くまで去っていってしまうような気がして。


「欲しいと思った事はあるよ。でも、手に入れたい訳じゃない」
 それは苦笑を滲ませた答えだった。


「言ってる事、支離滅裂だぞ」
「君に理解して貰おうなんて思ってないよ。でも、パインなら分かってくれるかも」
 バラライはそう言って、微かな優位感を口許に浮かべた。


 屈折した奴の考える事は良く分からない。
 好きなものは好き、欲しいものは欲しい。
 それで良いだろうに。

「分かって貰えるだけで満足なら結構な事だな。俺はあんたに気兼ねしないで済む」
「あれ?気兼ねなんてするつもりだったの?」


「俺はあんたを嫌いになりたくねえし、嫌われたくはねえんだよ」


 そう言った次の瞬間、バラライが浮かべた表情は泣き笑いのように思えた。
 小さく肩を震わせて暫く笑い続けたバラライは、不意にその笑いを収めて微かな苦笑を口許に刷いた。



「…あの子に伝えてくれない?お詫びも兼ねて今度はちゃんと奢るって」
「伝えるったって…」
 いきなり何を言い出すのだと、眉を寄せたギップルにバラライは深めた苦笑を向けた。

「大丈夫だよ」

 やけに確信めいた言葉だった。
 何故そんな事が分かるのか。


 そんな戸惑いが分かったかのように、琥珀色の瞳が一癖も有りそうな笑みを湛えた。



「…証明してみせて。君の気持ち」



 もしも…それが出来なかったら。


 口にはしなかった言葉がそこに見えた気がした。





前回の反動か、今回は結構穏やかに(?)真面目な話。
次話で締められれば良いのだけど。
お題96・もしも:20050304:シアーズ