８２・見返したい相手
妙な噂を耳にした。
と言うより好ましくない部類に入るネタだった。
ギップルは定例になりつつある顔合わせの為にベベルを訪れた。
その時に女僧官たちがこそこそと話をしているのを聞いてしまったのだ。
『最近、銀髪の美人が議長の執務室に出入りしているらしい』…と。
銀髪の美人と言う表現で真っ先に思い浮かぶ人はただ一人。
未だに宙ぶらりんの関係のままの想い人。
まさかな…と思う。
でも…とも思う。
込み上げた疑念と不安を抱えたまま、ギップルは案内された…その執務室へと足を踏み入れた。
「あれ？今日は早かったんだね」
書類の決裁をしていたらしい新エボン党の議長は、重厚なデスクに陣取ったままギップルを迎えた。
「ビーカネルに行かなきゃならなくなったから、早めに顔を出しておこうと思ってさ」
ギップルは手にしていた書類の束をデスクの上に放ると、早々に応接用の長椅子へ腰掛けた。
「何？これ…」
「幻光河近辺の連中からの要望書」
ベベルまでの道すがらそう言った書類を受け取ってくるのも、いつのまにかの役回りになっている。
「また仕事増やすし…」
不満げにぼやいたバラライは、顔を顰めながら紙の束を書類の山の上に加えた。
そして、彼はそれとは違う書類の山を指差す。
読んでいけ、若しくは、持って帰れ…の意味だと言わなくても分かっている。
持ってきた束の倍はあるだろうか。
ギップルは思わずウンザリと溜息を付いた。
「…どっちがだよ」
「これでも減らしてあげたんだから感謝してくれる？」
…あんまり出来ない。
そう口にしそうになったが、この議長様の働きぶりを前に迂闊な文句も言えない。
言ったが最後、痛烈な嫌味が飛んでくる。
ギップルはノロノロと立ち上がって、バラライのデスクへと近づくと…示された書類を手に取った。
それをパラパラと捲りつつ、思わず付いて出た溜息。
用紙いっぱいにびっしりと書かれた文字に頭が拒否反応をしそうだった。
何の自慢にもならないが、文字を読むのは苦手なのだ。
理由は単純。
書類に用いられるのは基本的にスピラ文字だからだ。
聞く、話す…までは早くにマスターしたものの、読み書きの出来は敬遠していた分…今一歩と言うところ。
全く読めない訳ではないのだか、かなり時間がかかる。
種族のハンデなんてものは誰も気にしてはくれないし、そんな事を口にするのも格好が悪い。
「何か…こう、要点だけ書いてくれないモンかねえ」
バラライは書類に落としていた視線を上げて、口の端を微かに持ち上げた。
「経典文字で要点だけ書かせようか？」
飛んできたのは痛烈な皮肉だった。
付き合いが深いだけに、そんな弱点など疾うに知られている。
「勘弁してくれよ」
「ビーカネルに着くまでには読み終えると思うよ。ちゃんと…読めばね」
「…へいへい。読ませて頂きましょ」
ギップルは何度目かの溜息を付いて、先程座った長椅子へと再び腰掛けた。
「ところで、グアドの族長に会ってきた？」
「ああ。相変わらず腰の低い爺さんだよな」
アルベド族に対する負い目があるにしろ、グアドの老族長はこんな若造相手に対しても馬鹿丁寧に話をしてくれる。
「そうじゃなくてさ…」
バラライはそんな感想など求めていなかったようで、不満そうに顔を顰めた。
要するに、疾っとと報告しろと言いたいのだ。
「幻光河一帯の件は一任する…とさ」
「マカラーニャの件は？」
「自分は傍に仕えていただけの者だから、寺院の事については一切与り知らない…って」
族長の言葉そのままに伝えると、バラライは小さく苦笑を浮かべた。
琥珀色の瞳が一瞬…遠くを見詰めるように細められたのが分かった。
それは彼の記憶にこびり付いた光景を見ているような眼差しだった。
バラライは自嘲のように苦笑を深めると、表情を改めてそっと息を吐き出した。
「写しくらいは期待していたんだけど。まあ…そっちは諦めよう」
ベベルに大掛かりな資料館が建設されている。
集められたスフィアを公開する施設らしいが、歴史的価値のある書物も置くのだとか。
その為に各地の寺院に眠っている古い書物を取り寄せているらしい。
グアドの族長にその話をしに行ったのは、嘗て彼がマカラーニャ寺院の僧官長に仕えていたからだ。
書物やスフィアを持ち出してはないかと訊ねたが、彼は首を振るばかりだった。
「良いのか？」
「寺院は湖に沈んでしまってるんだよ？書物だって読めるような状態じゃないだろうし」
「あの辺捜索したらスフィアくらいは出てくるかもしれねえぞ」
その提案にバラライは肩を竦めて小さく笑った。
「それは勇気あるスフィアハンターに任せるよ」
スフィアハンターと聞いて、あの噂を思い出してしまった。
勿論、銀髪美人の噂である。
確かめたい気もするが、この部屋の主に真っ向から問い質す事など…とても出来そうにない。
「ギップル？…どうしたの？」
不意の沈黙を訝しげに思ったのか、バラライは窺うように視線を投げかけてくる。
「えっ？いや…別に」
「何？お腹空いたの？」
「俺はガキかよ」
「いつもここに来ると、腹減った…って言う癖に」
通常、議会に出ているバラライを捕まえる事が出来るのは、昼時か夕刻を過ぎてからだ。
だからいつもその時間に顔を出す。
それが丁度…飯時と重なるだけの事。
今回は議会も休みだと聞いていたし、ビーカネルへの連絡船に乗る為に早くにやってきたのだ。
「悪かったな」
ギップルは舌打ちをして悪態を付いてみせたが、頭では全く違う事を考えていた。
ルカで会って以来、顔を見るどころか声すら聞いていない人の事だ。
今でも考えてくれていのだろうか。
思い悩ませるつもりは無くて、気にするな…と告げてはみたものの、本心では逆の事を望んでいる。
…いつだって考えていて欲しい。
簡単に打ち消す事の出来ない存在でいたい。
それは半ば叶ってはいるようだが、本当に欲しいものはまだ欠片も見えない。
「何か悩み事があるならお兄ちゃんが聞いてあげようか？」
バラライはデスクに頬杖を付きながら、少々楽しげな微苦笑を浮かべている。
「誰がお兄ちゃんだ。誰が」
「…だってパインが言ってたよ」
その名を聞いて鼓動が跳ねる。
益してやバラライの口から出てくると魔法の効力すらあるように思えた。
「な、何でそこにパイン先生が出てくるんだよ」
動揺を必死に抑え込んで邪険に返すと、バラライは琥珀色の瞳を楽しげに綻ばせた。
「…教えて欲しい？」
「別に聞きたかねえよ。どうせ皮肉ってたんだろ？」
「そう？じゃあ…教えない」
あっさりと引き下がっただけに余計に気になる。
態とやって楽しんでいるのだ。
この男は。
目の前に餌をチラつかせて、食いつこうとした瞬間に引っ込める。
なんて言う…弄ぶような芸当はお手の物のはずだ。
「あんたなあ…」
文句の一つでも言ってやろうと意気込んだ瞬間、耳に飛び込んできたのは扉を叩く音。
口から出そうになっていた感情が空に溶けた。
途端に気力が萎える。
脱力した様を見ていたバラライは小さく肩を震わせながら、扉の向こうへと声をかけた。
「どうぞ…」
数拍の間の後、開いた扉。
その扉を開けたのは…
噂の渦中の人だった。
確かに銀髪で文句無しの美人。
だが、絶対にそうであって欲しくない人でもあった。
こちらに気が付いた緋色の瞳が大きく瞠られたのが分かった。
交錯したまま硬直する眼差し。
だから、気が付かなかった。
…その瞬間、バラライがどんな表情をしていたのかなんて。
終
ベベル編突入！って意気込んではみたものの、思惑通りに進まない気がして怖い（溜息）
ギプにとって一番見返したい相手ってどっちなのかなあ。
お題８２・見返したい相手：２００５０２１３：シアーズ