７０・余裕みたい


　ヒールの奏でる音だけが彼女の存在を教えてくれていた。
　互いに言葉もないままに、二人…日暮れの街を歩く。
　何となく気まずくて、重みを帯びた空気が満ちていた。
　一瞬覚えた躊躇に逃してしまったきっかけを再び捕まえるのは容易ではなく、ギップルは密かに溜息を付いた。

　…ったく、どうしちまったんだろ。俺。

　多少の事なら挫けない自信があったと言うのに。



　長く伸びた影が彼の存在を知らしめる。
　振り向かなくてはこちらを見る事の叶わない、彼の右手半歩後ろ。
　態とその位置で歩こうとする己の狡猾さに、パインは内心苦笑してしまった。
　眼差しを向けられれば鼓動が逸り、声を聞けば小さな苛立ちを生むと知ってしまったから。

　…私、いつからこんなに臆病になってしまったのだろう。

　逃げては駄目なのだと、何度も言い聞かせてもぜんぜん効果が無い。



「…あのさ、パイン先生」
「…なあ、ギップル」


　同時に零れ落ちた声に、二人は息を飲んで…弾かれたように顔を見合わせる。

　刹那の交錯。

　それが再び離れた時には、互いに糸口を見失ってしまっていた。

　…もうちょっと待つべきだった。

　奇しくも浮かんだ思いは同じ。
　だが、それが分かる余裕があるはずもない。
　霧散したきっかけを必死に探す…長い沈黙が降りた。



　ギップルは全身の力を抜くように大きく深呼吸をして、その歩みを止めた。
　それに呼応するように、ヒールの響きも消える。


「なあ、パイン先生」

　再びの呼びかけに応えは無かった。
　振り返ったそこにあったのは、感情の見えない眼差し。

「…何だよ」
「その、そんなに気負わなくて良いからさ。俺がパイン先生の事好きなのは俺の勝手なんだし。それに…」
　次の言葉を探しながらそれを見詰めていると、緋色の瞳の奥が小さく揺らいだ。



　パインはそれをどう受け取って良いのか分からずに小さく唇を噛んだ。
　想いを告げられた事に、何かしらの答えを出さなければならないと思っていたのに。
　勝手に心の中に踏み込んで掻き乱したくせに、それを…自分の勝手だから気にするなと言うのか。

　こんなにも深く…その存在を刻み込んでおいて。
　もうそれを無視する事なんて出来ないのに。

「ホント、あんたって勝手だよな」



　吐き捨てるように冷たく響いた声に、ギップルは失敗を認識した。
　でも、何故なのかが分からない。
　物憂げな顔は見たくないし、これ以上避けられるような状況を続けるのは嫌だったから…そう告げただけなのに。

「何で怒んだよ」

「何で？どれだけ私が頭悩ませているのか分かってないのか？」
「分かってるから、気負わなくて良いって言ってんじゃねえかよ」



　パインは今までの迷いや悩みが虚しいものに思えて、泣きたいような気分になった。
　今までのように曖昧のままでいるのは、良くないのだと分かっているから…こんなに悩んでいると言うのに。

「そんな事言われたって、簡単に出来る訳がないだろ？」

　一瞬…瞠られた緑の瞳が、ややあって苦笑へと変わっていくのが分かった。



「…なあ、パイン」

　穏やかな口調で零れ落ちた…いつもとは違う呼び方に、ドキリとする。
　逸り出した鼓動を必死に抑えようとするが、それも叶わない。


「な、何だよ」
「そんなに考えてくれてんの？」

「当たり前だろ？」


　反射的に零れ落ちたであろう言葉に含まれる意味。

　それに気が付かない剣呑な眼差し。
　それに気が付いた小さな苦笑。


「…そっか」


　その呟きは、知ってしまった優位と、その優位であるが故のやるせなさ。
　片やそれに取り残された方は、恨みがましげな視線のまま。

　訪れたのは長い交錯だった。

　暮色が溢れ出す街にマキナの小さな明かりが瞬き始める。


　ただ見詰め合う事に気まずさを感じたのか、パインは眉根を寄せながら視線を泳がせた。
　その顔は何とも可愛らしくて…困らせているのだと分かっていても、嬉しくなってしまう。
　ギップルはそのパインの頬を指先で軽く突いてみる。

「…可愛いなあ。その顔」

　何を言われたのか分からなかったのか、硬直した瞳。
　それが幾度か瞬いて…次の瞬間、柳眉が跳ね上がった。

「人を悩ませといて何なんだよ。あんたは！」

　間近で声を荒げられたので、ちょっと耳に響いた。

「そう言うトコも好きだなあって」
「ホント、あんたって変な奴だ」

　怒っているのか、困っているのか分からないような顔をしたまま、パインはつっけんどんに返してくる。

「まあ…あんまり難しく考えるなって。もうちょっと力抜けよ」
「あんたに諭されるって、何かムカツク」
「はいはい…」

　ギップルは肩を竦めて受け流しながら、そろそろ行こうとパインを促した。

「何？そのお座なりな態度。腹立つな」
　パインは不平を漏らしながらも、抗う事なく歩き出す。

　その様子にギップルはひそやかな苦笑を零した。


　今度は右の隣でヒールの奏でる音が響く。
　振り返る事なく、その存在を確かめる事が出来る場所。


　半歩だけ縮まった距離。

　多分、怒っている彼女はそれに気が付いていない。


　そんな余裕は無いだろうから。



終



ホントに半歩の進展って感じ。お題も第２クオーター突入なのにまだこんな二人。
（正確には恋人未満話２４本目ですけど、何の慰めにもならない気が）
そんな私は余裕ないっす。お題消化計画を練り直さなければ（泣）
お題７０・余裕みたい：２００５０１２３：シアーズ