５６・ガード宣言
普段…天候には恵まれない事が多いと言うのに、この日の空は晴れ渡っていた。
張り詰める程に澄んだ大気が頬を弄る。
凍えた風に運ばれてきた雪が日差しを弾いてキラキラと舞っている。
空を見上げていた一つだけの眼差しがゆっくり降りて来て、綻んでいく。
それに誘われるように唇が微かな笑みを形作ったのが自分でも分かった。
認めるのは、少し癪に障るけれど。
「…行こうか」
「ああ」
軽く会話を交わして、再び足を進める
時が流れても、世の中が変っても、ここは彼らの「聖地」。
見上げれば聳え立つ…ガガゼト山へと。
ロンゾの長老は滅多な事では山を降りない。
それが彼の信念である以上は他人がどう口出ししても曲げる事はないだろう。
だが、部族を纏めている彼が交渉事の決定権を持っている以上、その席に顔を出して貰いたい…と言うのが、
スピラの動かす者達の考え方らしい。
彼に何故に否なのか…と何度問いても、彼らが納得出来る答えが返ってくるとは私は思えない。
根底にある概念が違うのだ。
守るべきもの、敬うべきもの、尊ぶべきもの…その価値観が異なるのだから。
「これは、まあ導入試験…みたいなモンかな」
「あんたのところにとっては渡りに船だったんだろ？」
「言っとくけど、今回は殆んど商売にはならねえんだぜ？」
ギップルは背負っていた機材一式を地面に下ろして、深々と息を付いた。
転送装置を使ったが、平らな場所などどこにもない山道だ。
かなりの重量の荷を背負っていれば息も上がる。
今回のマキナ派からの依頼は、通信スフィア装置の設置に当たってのガガゼト山での道案内と…一応の護衛だ。
聞けば、今まで各地を繋いでいたモノを改良してスクリーン越しの会合が出来る装置を作ったのだとか。
一箇所に集まらなくても、自身のテリトリー内にある装置の前に座れば良いらしい。
多忙な連中も態々各地に赴く必要が無くなる…と言う訳だ。
この依頼は、ロンゾの長老と顔なじみであるユウナとリュックが処理に当たる事になっていたはずなのだが。
ユウナはどこから貰ってきたか分からない風邪で寝込み、リュックは何故か…私が行くはずの依頼を処理に行っている。
要するに、「この男だから」最終的に自分にお鉢を廻してきた…と言う事なのだろう。
そう言う扱いには不満もあるが、気心が知れている相手なので気負わないで済むのは助かる。
「途中迎えを寄越すって言ってたけど、ここまで来ちまったな」
目の前に立ちはだかるのは断崖絶壁。
それを見上げたギップルはうんざりとしたような溜息を零す。
無理も無い。
身一つでなら容易に攀じ登れても、重い機材を背負って…と考えると気分も滅入るだろう。
代わってやりたいところだが、筋力も体力も劣る自分には到底無理だ。
こう言う時、女の身と言うのは少々不便だ。
パインは辺りを窺ってみたが、ロンゾ族どころか魔物や獣の姿もなかった。
「ここで少し待ってみるか？」
「是非、そうしたいね」
荷の傍に座り込んだギップルは、防寒用の上着のポケットを探って煙草を取り出した。
どうやら一服したいらしい。
吐き出した白い息が風に舞い上がる。
煙草の匂いがそれに添う。
「…座らねえの？」
立ったままでいる事を訝しげに思ったのか不思議そうに問われる。
パインは苦笑を返した。
「一応は、護衛だからな」
腰を下ろしては、咄嗟の反応が遅くなる。
「別に気張らなくて良いんだぜ？コレを背負ってる時は流石に動けねえけど、身一つなら自分の身は自分で守れる」
言われるまでも無く、この男がただ守られるだけの存在でない事くらい承知している。
だが一応は報酬を貰う仕事なのだ。
「分かってるさ」
それでも動こうとしない私を見上げて、ギップルが皮肉っぽく苦笑を刷いた。
「強情だな」
「今更だろ？それに、理由はそれだけじゃないから」
「何？」
「こんなところに座り込んだら、腰が冷える」
至極真面目に答えたつもりだが、緑の瞳が驚いたように数度瞬いた後…思いっきり吹き出された。
「そりゃ、失礼。だったら膝の上にでも座る？」
こいつは一体どう言う思考回路をしているのか。時々分からなくなる。
いつものように一言で一蹴しようとした矢先、感覚が異変を嗅ぎ付けた。
強い視線だ。
無視出来ない程に意識を引き付ける。
その源を仰ぎ見ると、一人のロンゾの若者が岩場の上から此方を見下ろしていた。
己の姿を誇示するように胸を張って。
「おっ？お迎えか？」
ギップルは彼を迎えるべく立ち上がると、人好きのするような笑みを向けた。
だが、相手はニコリともしない。
総じてロンゾ族の男は厳めしい顔付きをしているが、それ以上に彼の顔は険しい。
…彼は。
数少ないロンゾの知り合いの一人だった。
知己とまでは呼べない…何度か話をした事があると言う程度の、パインにとっては少々苦手な相手だった。
逞しい体躯を駆使して彼は軽々と岩場から山道へと飛び降りてきた。
こちらをチラリと一瞥しただけで、ギップルの方へと歩みを進める。
パインは己の体が緊張を帯びたままである事に気が付いていた。
何かがおかしいと感覚が告げている。
それを無視するべきではないと、経験上良く分かっていた。
彼は、歳だけ言えばまだ少年の域を脱していない。
とは言っても、そもそもの体の作りが違うのでギップルよりも少し大柄だ。
ロンゾ族は揃って表情の分かり難い面差しだが、彼の敵意は肌で感じる程に明らかだった。
剣呑な金色の眼差しが一点を見据えている。
ギップルを…だ。
「ロンゾには、そんな物は要らない」
牙を剥きそうな形相にギップルは多少驚いたようだが、彼独特の皮肉げな笑みが口許に浮かんだ。
「漸くやって来たと思えば、いきなりこれかよ」
ギップルは思わず溜息を付いた。
「マキナなど、御山を穢すだけだ」
正直…そんな風に言われるのは気に食わなかったが、まだ昔受けた風当たりに比べたら可愛いものだ。
元召喚士様からの情報からしても、ロンゾの長老がこう言う手段を講じる人物とはどうしても思えない。
もし本当に彼が本気で契約を撤回するのだとしても、こいつでは役者不足にも程がある。
どう考えても、この男の独断…としか結論付けられない。
こいつはただ、神聖な山に…彼の思うところの…如何わしい物を持ち込まれるのが嫌なのだろう。
「…オレグ」
訝しむような、叱責するような…微妙な響きを持ったパインの声が彼の名を呼んだ。
「知り合い？」
パインは静かな眼差しをオレグへと当てたまま、まあな…と曖昧に答えた。
オレグはその視線に応えようとはしない。
こちらを睨んだままだ。
「彼は正式な契約の上でガガゼトまでやってきた。もし契約を白紙にするなら長老自らの説明があるべきだろう？違うか？」
どこか張り詰めた冷ややかな声が説得をしようと試みる。
だが、オレグは嫌悪も露わに鼻を鳴らす。
「こんなヤツとはお会いにならない。帰れ。…否と言うなら力ずくでも排除するまでだ」
それはちょっと遠慮したい…と思考の片隅で思いながら、身構えた瞬間。
ひゅんっ…と大気を裂く音が鼓膜を突いた。
それと同時に目の前に迫っていた大きな手が寸前で硬直したのが分かった。
いや、それだけではない。
全ての動きが停止した。
冷えた大気が、そして…時間までもが凍り付いた気がした。
オレグの喉元に突き付けられた白刃。
それが誰の手によるものかなんて考えなくても直ぐに分かった。
冴えた緋色の瞳は、微かな動きすら見逃さぬように真っ直ぐに男を捕らえている。
その面差しに感情の色は無い。
白磁の人形のような無機質さにこっちまで恐ろしくなった。
敵意でも殺気でもない。
どう言う種のモノか分からない、底冷えのするような…危険極まりない気配を漂わせていた。
物言わぬままの圧力にオレグはゆっくりと手を引き、慎重なまでの動作で腕を下ろしていく。
パインはそれを見届けたが、相手を凝視したまま動かない。
やがて、幾度かの瞬きの後…微かに小首を傾げた。
「誇り高きロンゾの男が、長老の客人に狼藉を働くはずが無いよな？」
己より小柄で細腕の相手に完全に気圧された彼は、顔を強張らせたまま小刻みに数度頷いた。
すうっ…と細められた瞳。
まだ彼女は警戒心を解いていない。
「…パイン」
宥める為に名を呼んだ。
もういい…と告げる意味を込めて。
漸く剣を下ろしたパインは、ゆっくりと息を吐き出していく。
そして、どこか曖昧な眼差しを宙に向けたまま小さく呟いた。
「私はあんたを傷付けようとする者に容赦をする気はない」
普通なら男が言うべき台詞だろう…と思わなくはないが、彼女は姿こそ女性だが「戦う者」だ。
そこらの男など相手にもならない、スピラ屈指の剣士。
オレグの手が早くに掴みかかっていたならば、愛用の剣を一閃していたかもしれない。
「それは、まあ…俺としちゃ光栄だけどさ。もうちょっと穏便にいこうぜ？…あんたもな」
最後はオレグへと向けて添えると、彼はどこか悔しげに顔を歪めた。
「何で、こんな女の影に隠れているようなヤツ…」
…別に隠れてるつもりはねえんだけどなあ。
初対面の者にそこまで卑下される覚えも無いのだが、余程マキナを持ち込んだ事が気に入らないのだろうか。
考えを巡らせる間も無く、弾かれたようにパインが顔を上げた。
そこにあったのは紛れもなく凍えた怒りだった。
「今回は聞き流してやるが、今度この男を侮辱したら許さないからな」
低く唸るような威嚇の声にオレグが全身を強張らせる。
ギップルは改めて溜息を付く破目に陥ってしまった。
沈着冷静だと思っていたこの人は意外と喧嘩っ早いらしい。
過敏な反射神経のお陰でこちらの方が出遅れてしまうくらいに。
「パイン先生。落ち着けって…」
「充分落ち着いているが？」
「…ったく。眉間の皺にキスでもしてやろうか？」
何を言われたのか分からなかったのか、一瞬…きょとんとしていたが、咄嗟に眉間を手で抑える辺りは可愛らしい。
思わず構えてしまった事が悔しかったのか、剥れたような表情になった。
「…莫迦」
やっと、いつものパインに戻ったようだ。
それを見届けたギップルは、呆気に取られた様子のオレグを軽く睨みつけた。
「あんたも、あんまりパイン先生を怒らせるなよ？すっげえおっかないんだからな」
まあ、それも身に沁みて分かっただろう。
…それを一番知っているのは俺なんだけど。
ささやかな優越感を胸の内に満たして、ギップルは高く広がる空へと視線を向けた。
再び風に乗って舞い降りる…雪に誘われて。
日差しに溶けない冴えた煌めきは、どこか彼女の一片に似ていた。
終
今回はガガゼト編です。
ウチのパインたんはある意味ギプより強いものでこんな話（苦笑）
お題56・ガード宣言：２００５０９２１：シアーズ