５４・意地っ張り


　その選択に全てを委ねたはずだった。
　後悔すると分かっていても。
　でも…本当は、その後悔の意味すら分かっていなかったのかもしれない。






「何の用だ」
　漸く絞り出せた声は低く掠れて零れ落ちた。
　パインは顔を上げないまま、目の前を見詰め続けた。

　見上げては駄目だと、何かが耳の奥で囁いている。


「…何って、飯」


　声が降ってくると共に、狭い視界の隅で片手が軽く持ち上げられた。
　その存在を示すように。
　キャンプから持って来たのだろう。食事が盛られたトレイがそこにあった。

「要らない」

「嘘つけ。シドの娘が持って来たと思ってたから、開けたんだろ？」



　パインは、あまりにも簡単に言い当てられた悔しさに小さく唇を噛んだ。

　確かに無防備過ぎた。
　扉を叩いたのはリュック以外にないと思い込んでいたのが迂闊だった。

　持って来たのがこの男だから…要らない。

　そんな子供じみた意地から出た言葉と知られてしまった。


「…図星？」


　沈黙を肯定と取ったのか、皮肉げな声が降ってくる。



「もう会いたくないと言ったはずだが？」

　意図的に話題を変えようとした事が分かったのだろう、小馬鹿にしたような苦笑が微かに聞こえた。

「聞いたは聞いたけどね」
「だったら出て行け」


「一方的過ぎねえか？昨日の事は俺に非があるのは分かってる。だから謝るって言ってんだ。
それに耳も貸さずに…もう会いたくないだ？納得出来る訳がねえ」



　その言葉一つ一つが胸を抉り、苛ませる。
　あまりにも真っ直ぐ過ぎて容赦が無い。



「あんたが納得しようとしまいと、私はもう…会う気はない」
「一度の過ちすら許してくれないような冷たい奴だったのかよ」
「何とでも言え」

　扉を閉めようと、縁を掴んでいた手を動かそうとしたが、重みが増していて動かない。
　目の端で窺えば、ギップルの足が重石になっている。


「シドの娘やユウナ様も、そうやって簡単に切り捨てるつもりかよ？」
「そんな事しない！」
「じゃあ、何で俺は駄目なんだ？俺はその程度の存在だったのか？」




　あの時から全てが狂い出した。
　ただ、この人の飢えを癒そうと思った時から。
　この男の想いを知ってしまった時から。

　ここまで変貌してしまったものを、元に戻す事など出来ない。
　もう昔の仲間にすら戻れない。

　だったら全てを…




「…そうだ」



　たったそれだけを口にしただけなのに、かなりの疲労感を覚えた。







　緊迫した沈黙を破った…溜息とも苦笑とも付かない吐息が耳元を掠めた。




「顔上げて、面と向かってもう一回言ってみ」




　これ以上無く、全身が強張った。


　パインは扉の縁を掴んでいた手に力を込めた。
　そうしなければ、立っていられなくなりそうだったから。
　どれだけかかって顔を上げたのか分からない。

　視線の先に見慣れた顔を捉えた瞬間、心が揺らいだ。

　目が合った切れ長の眼が、少し驚いたように瞠られたのが分かった。
　その意味が分からなくて、パインはその眼差しを見詰めたまま動けなかった。



　不意に、ギップルは口の端で小さく笑った。
　どこか皮肉げで、少し意地が悪そうな、彼独特の。



「…そんな顔して言われても到底信じられねえな」

　そんな顔？

　浮かんだ疑問が分かったのか、ギップルはまた小さく苦笑を零す。





「俺を遠ざけたって、傷は消えねえよ？」


　何が言いたいのか分からない。
　そう思いながらも、悪寒にも似た震えが走った体を必死に掻き抱いていた。



「何を…」



　何故、声が震えているのだろう。
　体中が空気を欲しているのに、巧く息が注げないのは…どうして？



「本当は分かってんだろ？」



　頭を振ったのは、分からないと言いたかったのか。
　それとも、それ以上の言葉を聞きたくなかったからなのか。

　後者なのだと自覚した途端、足が退いていた。


「やめっ…」


　開け放たれた扉の向こうから伸ばされた手を、咄嗟に振り払っていた。


「逃げんな！」



　分かってる。本当は分かっている。
　これが逃げだって事くらい。


「もう放っておいて！」

「そうやって逃げ回ってきた癖に、一人で生きてきたつもりになってんじゃねえよ！」


　紛れも無く、その言葉は胸を抉った。
　激しい痛みに怒りが触発される。


「あんたに私の何が分かるって言うんだ！」
「分かる訳ねえだろ？俺はあんたじゃない。ちゃんと言ってくれなきゃ分からねえんだよ！」
「別に理解して貰わなくても結構だ！」
「それじゃ、俺が嫌なんだよ！」



　この男はいつだって、勝手に私の中に踏み込んで…掻き乱す。

　もう私に構わないで。
　心が悲鳴をあげているのに、昂ぶった感情が抑えられない。

「そんなのあんたの勝手だろ？！」






　不意に一つだけの眼差しが、どこか自嘲めいた苦笑を帯びた。
　今までの…感情に任せた色とは違う。


「ああ、そうだよ。俺の勝手だ」


「だったら、放っておいてくれ」


「それで良いのか？」


　その真意を掴みかねて、パインは微かに眉を寄せた。
　ギップルは暫くこちらを見詰めたまま動かなかった。
　どこか皮肉げな微苦笑が浮かんだ唇が、ゆっくりと開く。


「もう一回言ってみな。あんたにとって、俺は簡単に切り捨てられる存在だったのか？」






　もう一度。
　この男が己よりも軽い存在だと、そう告げればこの苦渋は終わる。

　ただ一言肯定すれば、それで済むのに。




　何故なのだろう。舌がひどく重たい。
　言葉を紡ぐべき唇が震える。

　あの時はあんなにも簡単に言えたのに。







　私はその答えに気が付いてしまった。
　違う。もっと前から気が付いていたのだ。


　この男だからなのだと。


　この男だから…許せなかったのだと。
　憎む事が出来たならどれだけ楽だっただろう。

　許すことも憎むことも出来なかった私は、ただ逃げ出すことしか出来なかった。




　切り放そうとしても、遠ざけようとしても…
　本当はもう、私の中に絡み付いて離れないのに。




　緊張に耐え切れなくなったパインは、真っ直ぐに注がれる視線から目を逸らしてしまった。





「…言えねえの？」



　長い沈黙の後の…その声は、からかうような口調だったのに優しい響きを帯びていた。



　悔しかった。
　悔しくて、悔しくて。




　でも、心のどこかで安堵している私がいた。




終


何とか、ふりだしに戻る…かな？
うちのパインちゃんは意地っ張りと言うか、頑固だから、自分で身動きできなくなっちゃうんです。
お題５４・意地っ張り：２００５０４１９：シアーズ