５１・出し惜しみ
彼は一瞬眉を寄せて怪訝そうな顔をした後、幾度か瞬きをしながらこちらを見詰めたまま動かなくなった。
「悪いが、もう一度言ってくれないか？」
二度も三度も簡単に口に出来る内容では無かったから、無言の一瞥を返してみた。
その行為だけで言葉以上に伝わったのだろう。ヌージは深々と溜息を付きながら、手にしていたカップを置いた。
呆れているのは見て分かる。
それもそうだろう。
予告も無しに突然やって来て『男って一度寝たら、やっぱり二度目があると思うもの？』などと訊いたのだから。
こんな話が出来る相手など、ヌージくらいしか考えられなかった。
何故、と問われても明確な理由は思い浮かばない。
多分、彼が私をそう言う対象に見ていないと知っているからだと思う。
「それは…相手に依ると思うが？」
「ふうん。そう…」
予想の範疇内であった答えにパインはただそう零して、カップを口許へと運んだ。
誰が淹れたのか分からないが、美味しいお茶だった。再び聞こえた溜息に、パインはカップの中に投じていた視線を上げてみる。
「訊いても良いか？」
「…答えられる事なら」
予防線を張りながら小さく肩を竦めると、ヌージは指先で眼鏡を押し上げながら…また大きく息を吐き出した。
「お前、それを後悔しているのか？」
一般論で良いからと銘打って、誰かに相談を持ちかける時には大概…その状況に陥っている時だ。
今の自分も然り。
だからヌージの問いも範疇内だった。
でも、答えはまだ見つかっていない。あの夜からずっと。
「さあ、自分でも…よく分からない」
「二度とご免だと思うなら拒絶すれば良い事だ。その腕っ節にそう敵う相手がいるとも思えんが？」
「それはそうだけど」
「だが、好きな男なんだろう？」
それは範疇外の問いだった。
情を交わす事に感情はいらないはずだ。
「嫌いではないけど？」
戸惑いと躊躇の…微かな間をどう読み取ったのか、ヌージも口許に皮肉げな苦笑が微かに浮かぶ。
「…お前が身を許した基準とやらを訊いてみたいものだな」
「多分、触られても平気だったから…」
ヌージは一瞬絶句したように灰青の瞳を見開いてマジマジとこちらと見詰めると、ややあって…今度は低く笑いを立てながら肩を震わせ始めた。
「お前って奴は…」
「笑わないでくれる？私にとっては一番重要なんだから…」
私は慣れない人に触れられるのが堪らなく嫌だった。
こちらに対する警戒心がゼロであった…あのリュックにさえ、出会った当初は触れられる事を極力避けていた。
先入観もあるのだろうが、嫌いなヤツが近づくだけでうなじの辺りがチリチリし出す。
「触れられても平気な奴なら誰でも良ったのか？」
「ベタベタ触られて平気な奴なんて…そういないよ」
「…俺は？」
それは意外な問いに思えた。
目の前にいるこの男には、面と向かって「色気も無い貧弱なお子様には興味ない」と言われた覚えがあるからだ。
趣旨変えをしたとも思えないから、多分…興味本位か、若しくはからかっているかだろう。
「あんたまで物好きな訳？まあ…多分、平気だと思うけど？」
「試してみるか？」
今度は完全にからかうような口調だった。
パインはカップの中へと視線を落としながら、ひっそりと微苦笑を刷いた。
「遠慮しておく。男の相手なんて気力も体力も使うものみたいだし」
意識も自我も奪われるあんな行為を、世の女性たちは良く平気でやれるものだ。
何も分からなくなるような無防備な状態になるなど、怖くて堪らない。
「ったく…、色気も素っ気もないな」
「そんなモノ、私に求めて貰っても困る」
生憎と、可愛げだとか愛想だとかなんてものはどこかに置き忘れてきてしまった。
それはヌージが悪いのでも、それを引き起こしたシューインが悪いのでもない。
確かに、二年前の事件がきっかけで更に頑なにはなったとは思う。
でも、それ以前から…そうなのだ。
私は人と付き合う事が苦手な子供だった。
何より、相手の気配と言うか…雰囲気と言うべきか、それに慣れるのに時間がかかる。
こちらが距離感を測っている間に向こうがその距離を掴みあぐねて、知らぬまに隔たりが出来ている…なんて事も少なくない。
「たまには、にっこりと愛想良く笑ってみたらどうだ？」
「…喧嘩売ってんの？」
癖のある…どこか皮肉げな微苦笑がヌージの口の端に刻まれていく。
「まあ、少なくとも…惚れた男の前くらいは出し惜しみをしない事だな」
「そんな相手が見つかったらそうするよ」
「その時は是非…紹介して欲しいな」
…そんな感情を抱ける相手が、そういるとは思えないけれど。
内心だけの言葉を伏せて、私は小さく肩を竦めて答えた。
「気長に待ってて」
互いの近況や他愛の無い話をして過ごしていると、不意に扉を叩く音が飛び込んできた。
ヌージは今までとは違う意味の溜息を一つ付いて…それに応えた。
予告無しの私の訪問をダシに、執務を放り出して…彼はここで寛いでいる。どうやら、その休息時間も終了と言う事らしい。
扉を開けて、現れたのはベクレムだった。
彼も元々愛想の良いとは言えない男だが、更に機嫌が悪いらしく…顔がヒクついていた。
「そんなに怖い顔するなって。もう帰るよ」
「別にいて貰っても構わない。いや…いて貰った方が助かる」
サボっている盟主への苦言…または小言と言うべきか…でも言いに来たのかと思いきや、それはかなり意外な言葉。
「何かあったのか？」
意外に思ったのはヌージも同じだったらしく、怪訝そうな表情を浮かべた。
ベクレムは額を抑えながら、深々と溜息を付く。
そして…まるで厄介事の到来を告げるかのように、唸るように答えた。
「…お客様がお見えです」
「客？」
ヌージが問い返すと殆んど同時に騒々しい声が扉の向こうから洩れ入ってくる。
それがだんだん近づいてくるようだ。
耳を欹ててみると、隊員たちの声に混じって聞き覚えのある声が聞こえてくる。
私はその声が誰のものであるか分かったから、面倒に巻き込まれる前に撤退する事を決めた。
「…お邪魔になるようだから、私は帰るよ」
腰を上げかけた私に向けられたのは、ベクレムの恨めしそうな視線。
カツカツ…と、ヒールが奏でていた音が、扉の向こうに止まったのが分かった。
多分…彼女は、出し惜しみなどしないだろう。
ヌージの顔を見て、嬉しそうに…蕩けるような笑みを浮かべるのだ。
そして、彼は彼女を理由に新しいお茶を飲む。
私の時より時間をかけてゆっくりと。
終
ヌージのお相手が誰なのかはご想像通りかと。
ギプが色々悩んでいる間、パイン先生はこんな話をしていました。もし…知ったら嘆くだろうなあ。
お題51・出し惜しみ：２００５０１０４：シアーズ