４１・ピアノ
「はあ〜、タイクツ」
カウンターに頬杖を付いて、リュックが深々と溜息を付いている。
まだ午前中だと言うのに何度聞いたか分からない呟きだ。
急にぽっかりと空いてしまった一日。
当初は朝から仕事の予定だったが、依頼人の都合により急にキャンセルとなったのだ。
今のところスフィアの情報も入って来ない。
ユウナはこれ幸いと休暇を早めてルカで降りた。
どうやら麗しの君がルカに出てきているらしい。
「リュック、さっきからそればっかり…」
「だってぇ〜。懐寂しい時に急に暇になるのって困るんだよねえ」
リュックは遊びに行くにも買物をするにも先立つ物が無いらしく、已む無く留まった。
「ダチの手伝いでもしてくれば？」
「え〜」
不満そうに口を尖らせて彼女は、飲み終えてしまっているコップの中をストローで突き始めた。
残っていた氷がザクザクと音を立てる。
「じゃあ、セルシウス内の掃除…とか」
「うー、却下。何か他には？」
…何故私がリュックの一日の計画を提案しなければならないんだ？
それでも一応は頭を捻ってみる。
パインは冷めてしまった紅茶を一口飲んで小首を傾げた。
「本読んだり、音楽聴いたり。お得意のネイルとか…」
「なーんかどれもパッとしないなあ」
「ここでウダウダ言ってても何も始まらないと思うけど？」
「そうだけどさ〜。…って、パインは何するの？」
読みかけの本もあるし、溜まった書き物の整理もしておきたいし、ついでに部屋の片付けも出来たら良いな…と、
計画は一応出来上がっている。
「私は…」
『…おーい！パイン。ジョゼから、通信だぞ！』
話を遮るように突如、居住区内に響き渡ったアニキの声。
途端にリュックがニヤニヤと笑い出した。
「なーんだ。パインもデートかぁ」
迂闊にも何か言い返そうものなら餌を目の前にした雛のように騒ぎ立てるだけだ。
パインは牽制の睨みだけを返すと、軽く息を吐き出して椅子から立ち上がった。
出口に向かいかけて、ふと何かが引っかかった。
…ジョゼから？
予定ではあの男は今…ベベルにいるはずだった。予定が変ったのだろうか。
教えてくれと一度も言った覚えはないのだが、ギップルは大まかな行動予定を告げてくる。
あの男の方がどう考えても多忙で、その合間を縫ってこちらが会いに行く事が多いからだろう。
「パイン？どしたの？早く行ってあげなよ」
囚われていた思考から解放したリュックは怪訝そうな顔をして見上げてくる。
無意識のうちに足が止まってしまっていたらしい。
「えっ？あ、うん…」
渦巻いた疑問はそれだけではなかったが、パインは曖昧に答えてカウンターから離れた。
そこに再び降って来たアニキの声。
『リューック！ウダウダ言ってるなら、ブリッジ来て、装置の点検くらい手伝え！』
さすがは兄妹だ。
見えて無くても分かるらしい。
思わず込み上げた笑いを堪えて振り返ると、リュックはウンザリした様子で深々と溜息を付いていた。
「ほら、リュック。お呼びだぞ？」
「はいはい、はいはい。あ〜もう！何でこう巧くいかないもんかねえ」
降って湧いた空きの一日。
もし偶然にも、あの男もそうなのだとしたら計画を返上して一緒に過ごすのも良いかもしれない。
この時までは本当にそう思っていた。
一緒にブリッジに入ったパインはチラリとこちらに視線を投げてから、通信装置へと向かっていく。
一応は牽制のつもりらしい。
…邪魔なんかしませんって。
そう思いつつも、少々冷やかしてやろうかとリュックはこっそりモニターを盗み見てみた。
だが、そこに映っていたのは幼馴染みではなかった。
怪訝そうな声を上げたのはパインの方が先だった。
「…ラザック？」
マキナ派立ち上げ当初からギップルの片腕で主に事務管理担当の男だ。
フラフラ出歩いているリーダーに代わって、実質マキナ派を切り盛りしている人だと言って良い。
その彼がパインに一体何の用なのだろう。
『急にすまない。悪いがベベルに行って貰えないか？』
「ベベル？あいつに何かあったのか？」
ギップルの予定を知っていたのか、パインは僅かに緊張を帯びた声で問う。
多数の依頼を滞りなく捌き、堅実な金庫番としてもマキナ派で一目置かれている男もパインを目の前にして
少々腰が引け気味だ。
『いや、まあ…その、…あいつ、ベベルでとっ捕まってな』
微妙な間があったのは、ブリッジにいた誰もがその言葉の意味を飲み込むのに時間がかかったせいだろう。
「え〜？！」
誰よりも先に驚きの声を上げてしまったのはリュックだった。
飛んできた緋色の視線に慌てて自分の口を両手で塞ぐ。
「あの莫迦。何やらかしたんだ？」
呆れ満載でパインが言う「あの莫迦」とは勿論ギップルの事だ。
『どうやら喧嘩騒ぎを起こしたらしいんだ』
「自業自得なんじゃないのか？」
『一応はお咎め無しで済んだらしいんだが、身柄を引き取りに来いって連絡があってさ…』
「無罪放免なら勝手に出てくるだろ？子供じゃあるまいし、何で迎えに行かなきゃならないんだ？」
パインはいつも以上に冷ややかで素っ気無い。
その反応にはラザックも困惑顔だ。
一応パインでも、恋人の心配くらいはするだろうと踏んでいたのだろう。
『しょうがないだろ？そう言うお達しなんだから…』
「だからって、何で私が」
問いと言うよりは不満を滲ませた台詞に、モニター向こうでラザックは顔を引き攣らせ恐々と身を竦めた。
『いや、その…な。俺は留守を任されてるから動けないし…』
「そうだろうな」
『他の連中もベベルなんて敷居が高いって嫌がるし…』
「それで？」
パインは込み上げ始めた苛立ちを表すかのように、指先で操作盤の端を幾度か叩き始める。
爪が弾いた小刻みなリズムに、ラザックは益々身を縮めた。
『姐さんなら…』
緋色の瞳がすうっ…と細まると同時に、指先が一際大きく音を立てた。
そんな風に呼ばれるのは不快だと言わんばかりに。
竦み上がったのはラザックだけでなく、傍にいたリュックまでも思わず顔を強張らせて後退ってしまった。
『パ、パインなら議長とも知り合いだし、仕事ででも何度か出入りしてるんだろ？』
「確かにな」
パインは素っ気無い反応ばかりで結論に辿り付かない。
『だから、な？頼むよ』
「私にはどうしてそこで、だから…なのかが理解出来ないな。ベベルに何度か出入りしていて、私より身元が
しっかりしているのが他にいるだろ？」
『ユウナ様とか？』
カッ、カッ、カッ…と一定のリズムで刻まれる響き。
そのテンポが次第に速くなっているのは気のせいだろうか。
「ここには族長の息子も娘もいるんだぞ？それ以上の適任は無いだろ？」
リュックは一瞬誰の事を言っているのか分からずに首を傾げた。が、あれ？と気が付いた。
…え〜！あたし？！
それはアニキも同じだったのだろう。思わず互いに顔を見合わせてしまった。
アニキ行ってよ…と目配せをして指差せば、嫌だ…と腕で×印を掲げて何度も頭を振られてしまった。
パインは本当に目が幾つ付いてるのか分からない人だ。
業とらしい軽い咳払いと共に、指先が高らかに鳴った。
その指先から氷の魔法でも放たれたかのように、一瞬…二人同時に凍りついた。
『ま、まあ…それでも構わないからさ。迎えに行ってやってくれないか？』
「それはマキナ派からの正式な依頼と受け取って良いんだな？」
パインは唇にうっすらと笑みらしいものを浮かべたが、当然の事ながら目は笑ってない。
ホントに怖い。
今逆らったら何が起こるか分からない。
それを察したラザックは曖昧に誤魔化しながら、じゃあ頼むな…と言い残して、逃げるように通信を切った。
逃げるように…ではない。
正しく、逃げたのだ。
パインは何も映らなくなったモニターを暫く凝視していた。
人差し指だけで奏でられていたものが数本に増え、リズムを刻んでいく。
早くなったり、遅くなったり。
強くなったり、弱くなったり。
まるで彼女の思考の回転速度を表しているかのように。
いや、もしかしたら表からでは窺う事の出来ない感情の起伏かもしれない。
アニキもダチも…勿論あたしも、物音も立てず息を殺して窺うしか出来なかった。
激しい緊張の中を変化するリズムが響く。
その音がふと、途切れた。
やっと恐怖の曲が終わるのかとホッと気を緩ませかけた瞬間。
ダンッ！
曲の終わりに相応しい…激しい一撃がブリッジに響き渡った。
それに合わせて三人の肩が見事なまでに同じタイミングで踊った。
リュックは心臓が飛び出たかと思った程驚いた。
悲鳴すら喉に張り付いた。
…ひょえ〜！怖いよ〜！
怒りが渦巻く気配を目の前に、壊れるから…なんて文句を誰が口に出来ただろう。
「…あの莫迦。絶対にシメる」
搾り出したような低く唸る声に、ブリッジ内の気温が急激に下がったような気がした。
終
ちょっと捻り過ぎ？…とは思いつつも半ば強引に消化（苦笑）
さーて、あの莫迦は無事に済むのかしら？
お題41・ピアノ：２００５１１０７：シアーズ