35・一緒にお風呂


 全身の力を抜きながら、ゆっくりと息をつく。
 体を包むのは柔らかな浮遊感。

 パインはまどろんでしまいそうな程の心地良さに浸りながら、ひっそりと微苦笑を刷いた。


 …これを独り占めって言うのは贅沢だよな。



 冷えた体がじんわりと温まっていく。



 どこまで手足を伸ばしても遮る物は何も無い。
 縁の岩に頭を預けて浮力に身を任せているせいか、心までもゆったりとしている気がする。

 目の前では立ち昇る湯気が夕暮れへと向かう大気の色彩に染まっていく。

 今日は本当に良い天気だった。珍しい事に。
 プライベートではなく、一応は仕事で一緒だったから…だろうか。
 ガガゼト山が一日中晴天なのもかなり珍しいらしいから、余程運が良かったのだろう。


 思わぬ事態こそあったが、こんな楽な…しかも個人的事情を含んだ…仕事で報酬を貰うのは少々気が引ける。
 益してや、温泉でのんびりなどさせて貰っているのだから。

 だが、これも一応は飯の種だ。
 雇い主が誰であれ、どう言う事情であれ、体を張っているのだから頂けるものは頂くとしよう。




 パインはゆっくり身を沈ませて超特大の湯船の底に片手を付くと、体を起こした。
 滑らかなお湯をゆったりと掻いて抵抗感を味わう。
 上げた爪先で軽く水面を跳ね上げて、岩場に反響する雫の音に耳を澄ます。

 そんな他愛のない事すら何だか楽しい。

 身も心も開放感に浸っているらしい。
 自然と頬が緩む。


 だが、こんな状況であっても削ぐ事の出来ない感覚が何かを捕らえた。

 誰何するまでもなく相手は堂々と現れた。
 しかも、ご丁寧に声までかけてくれる。



「パイン先生。ご一緒して良〜い?」



 駄目と言ったところで聞く相手ではないが、一応はしかめっ面を繕ってみた。


「嫌だ」
「そう恥ずかしがるなって。何も着てねえ訳じゃないんだし…」


 別に羞恥心から言ったのではない。
 彼の言う通り裸で入浴している訳ではないのだから。

 そうそうやって来る客もいないだろうが、無事に辿り着いた者なら老若男女…誰でも入れる混浴湯。
 余程自分の体に自信があるか完全に開き直っていなければ、何も身に着けないで入るのは到底無理だろう。
 勿論、私はどちらでも無かったから肌着程度は身に纏ったままだ。


 温泉を商売にしようと、街の銭湯のように男女の湯を分ける工事の話が持ち上がったらしいが、
ロンゾ族が神聖な山に手を加える事を断固拒否したらしく計画は頓挫したそうだ。

 それはそれで良いと思う。

 時の流れに左右されず…変らずにあり続ける頑固さは嫌いではないし、それも必要だと思うから。




 パインは傍までやってきた男を横目にちらりと窺って、呆れ満載で溜息をついた。
 案の定、ギップルは既に防寒用の厚手のブルゾンを脱ぎ始めている。

 良い?と問いたそれは、訊くだけ訊いてみた…だけなのだ。

 衣擦れの音と共に纏っていた服が次々に岩場へと落とされていく。
 一応、脱衣する場所だけは設けられているのだが、そんな事はお構いなしに…だ。


 今でもそれなりに鍛えているのか…なだらかで引き締まった筋肉のライン。
 腕や脚が長いから細身にも見えるがしっかりとした体格をしている。
 所々に見える傷痕は生き抜く為に戦ってきた者の証だ。

 逞しい体躯を次第に晒していく様を何となく眺めていたが、ふと不安が過ぎった。


 …まさか、全部脱ぐ気じゃないだろうな?


 そんな感情を読み取られたのか、投じられたのは苦笑を帯びた眼差しだった。

「野郎が脱ぐの…見てて愉しい?」

 鼓動が跳ねたのが分かった。
 パインは慌てて顔を逸らした。


「べ、別にそんな意味で見てた訳じゃない」
「そうか?ま〜た妙な想像でもしてるのかと思った」
「するか、莫迦!」


 からかわれているのだと分かっているのだが、この男が相手だとどうしてもムキになってしまう。
 その反応を愉しまれるだけだと分かってと言うのに。

 多少堪えた笑いが聞こえた。


 それ以上脱ぐ気配はなかったから、どうやら最後の一枚だけはちゃんと残したらしい。





 ぽちゃん…と、水面が音を立てる。




 揺れた波紋が寄せると同時に体が緊張を帯びていく。





 伸ばしていた脚をソロソロと引き寄せて膝を抱えたのは、無意識だった。


 ふへぇ〜…と間の抜けた声を上げたのは、湯に浸かった素直な感想だろう。
 彼もまた、心地良い開放感を味わっているらしい。
 こちらは異常なまでの緊張感に襲われているのだが。

「何、縮こまってんのさ。こんだけデカイんだぜ?もっと伸び伸び浸かったら?」


 …誰のせいだ!誰の!


 心の叫びは言葉にはならなかった。

 するりと伸びてきた手が腕を掴むと強引に引っ張られた。
 傾いた体が沈みそうになって、パインは慌てて底に手を付く。


「ちょ、ちょっと!」

 咄嗟に抗うと、また小さく笑われた。
「別にどうこうするつもりはねえって。ほら…こっち来いよ」

 更に引き寄せられ、クルリと回転させられた体が背中を向けてギップルの目の前で止まる。


「それこそ広いんだから何もこんな…」


 密着する必要など無いだろうと抗議をするよりも先に、体に絡みついた腕に引き寄せられた。
 隔てているのは薄衣一枚。
 否が応でも彼の肌の感触が伝わってくる。

「俺はいつだってスキンシップがしたいんだって…」

 背後から囁かれた声にゾクリと震えが走った。



「どうこうするつもりはないって言ったばかりだろ?」

 緊張に上擦りそうになるのを必死で堪えて問うと、悪戯っぽく響く吐息が耳元を擽った。

「期待してるなら応えよっか?」
「誰がするか!」





 肘鉄の一つでも食らわせてやろうかと身を捩ろうとしたが、うなじから走った痺れに全身が硬直する。





 唇から零れ落ちたか細い声が岩場に反響して耳に届いた。





 他に誰もいないと分かっていても羞恥が込み上げる。

 彼の表情はさぞ愉悦に満ちているのだろう。
 そう思うと、少し悔しくなった。

 震えたままの吐息を零さないようにパインは唇を噛み締める。



「大人しくしてろって…」



 身を縛する程の一撃を与えた唇が今度は意地悪げに囁いた。

「…ジタバタしなきゃ、ホントに何もしねえよ」



 本当かどうか疑わしいものだが、下手に抗うのは賢明ではない。
 ここは、誰が来るとも分からない場所なのだから。


 ギップルは粟立った肌を宥めるように、大きな手で湯を掬ってかけてくれた。


 意地悪だったり、優しかったり。
 やはり振り回されてしまう。



 肌に伝わってくるのはお湯の温みか、それとも再び抱き締められた温もりか。
 そして、彼が無言のまま感じ取ろうとしているものは。

 力を抜くような長い息をついたのはどちらが先だっただろう。


 普段にはない状況に相変わらず鼓動は弾んでいたが、この腕に包まれる安堵は誤魔化しようがない。

 それが私自身にとって良い事なのかどうか分からない。
 身を委ねて寄りかかる怖さはいつだって付き纏う。




 やがて、拘束していた腕が緩み…密着していた肌の感触が消えた。
 それを惜しんでいる己に思わず苦笑してしまった。


 暫く背後を窺っていたが、宣言した通りギップルは何もしてこない。
 この手に何度も騙されているのだが、やはり気になってしまう。

 恐る恐る顔だけで振り返ってみると、ギップルは縁の岩場に肘を預けて寄りかかり…目を閉じていた。





 悪戯な唇は微かに綻んでいる。


 何だか幸せそうだ。


 無防備そのものの面差し。




 それに誘われて微苦笑が浮かんだ。

 何だか…ふんわりと胸の中までも温かくなった気がする。

 心が揺れても、どれだけ迷っても、真に己を偽る事など出来ない。
 想いの欠片はどれも全て彼へと向かっているのだから。




 もう少し眺めていたくなって体ごと向き直ろうとしたが、どうやらそれは失敗だったらしい。
 両脇を遮るように投げ出されていたギップルの脚に触れてしまったから。


 ぱちりと開いた一つだけの瞳とかち合った。


「今、ジタバタしようとした?」
「ち、違う」


 慌てて頭を振ったが信じては貰えなかったようで、口の端に笑みが刻まれた。
 この男がこんな顔をする時に何を考えているかなんて…不本意ながら…嫌でも分かる。

 パインは誤解を解く為に更に言い募った。

「振り返ろうとしただけだって!」

「何で?」
「見てたかったから」


 ここまで正直過ぎたのは、軽いパニックに思考が追いつかなかったせいだろう。
 いくらでも誤魔化せたはずなのに。


「何を?」


 再び問われて、パインは一瞬…言葉を飲み込んでしまった。
 勢いに任せて、あんたの顔だと言ってしまえば…まだ気恥ずかしさも半分で済んだだろうに。

 どう言うべきか悩んでいるうちにどんどん頬が熱くなる。
 茹だってしまうんじゃないかと思うくらいに。

 ギップルは噤んだ唇を促すように濡れた指先で軽く突いてくる。
 それはもう、期待に満ち満ちた表情で。




「…早く言わねえと逆上せそうだぞ?」



 本当の事なんて、簡単に言える訳がない。

 照れ臭さは勿論。
 何もかもが中途半端な自分には言う資格はないと思うから。



 もっと…ではなく、ずっと。

 傍らでこの人を見詰めていたいと


 …願ったなんて。







服無しではウチのパインたんは殴り倒してでも絶対に拒否するだろう…と苦肉の策。
色々期待していた方には申し訳ない。これが精一杯でした(汗)
結局、ホントに逆上せてギプに介抱されてたりして…(苦笑)
お題35・一緒にお風呂:20051009:シアーズ