３４・濡れた髪
…こりゃ、すげえや。
目の前に広がる光景に、思わず呆気にとられた。
雲が出来てきたから戻ろう…とのガイド役の言葉に従って大正解。
ロッジに辿り着いて暫くすると、辺りがどんどん暗くなり…仕舞いには凄まじいまでの雨が島を襲った。
半端な雨量ではない。
バケツをひっくり返す…とは当にこの事を言うのだろう。
お陰で先程まで漏れ聞こえていたシャワーの音さえ掻き消された。
乳白色のベールが天と海の間をゆらゆらと揺れている。
激しい雨音が、今では少しくすぐったいような記憶を刺激していった。
嵐に閉ざされた部屋での事を。
あの夜がなければ、俺も彼女もここにはいないだろう。
煙草をくゆらせながらぼんやりと外を眺めていると、不意に何かが鼓膜を打った。
聞き逃してしまいそうな微かな異変。
耳を澄まして窺ってみるが、激しい雨垂れの音以外何も聞こえなかった。
だが、確かに聞こえた。
…気がする。
短くなった煙草を灰皿に押し付けて立ち上がると、ギップルは異変を感じた方へと足を進めた。
「パイン先生？どうかしたか？」
「な、何でもない！」
普段の毅然とした…と言うよりは、照れを隠して突っぱねるような言い様に何かが起こった事は予測出来た。
意外にも、結構分かり易い人なのだ。
目隠しのシャワーカーテンをペロリと捲った向こうには、蹲るように座り込む背中。
その傍には泡だらけのスポンジが転がっていた。
「大丈夫か？」
声をかけると、弾かれたように赤面付きの睨みが飛んできた。
洗ったばかりなのか、濡れた重みですっかり降りてしまっている髪から雫が滴っている。
「覗くな！莫迦！」
「今更だろ？」
悪戯心満載で一糸纏わぬ姿へと視線を走らせると、パインは蹲った体を更に縮込ませた。
露出の高い格好を惜しげもなく晒してくれる彼女でも、何も着ていないとなると…流石に抵抗があるらしい。
「せ、背中が沁みただけだから大丈夫だってば」
透けるような白い肌は強烈な日差しを受けて、真っ赤に焼けてしまっていた。
肩口から背中にかけてが特に酷い。
身に付けていた水着の跡をくっきりと描いている。
「背中、洗ってやろうか？」
勿論…親切心で言ったつもりだが、普段の行いが悪い過ぎるせいか緋色の瞳が警戒心満載で睨んでくる。
「必要ない！もう！さっさと行けって！」
いつもは冷ややかで素っ気無いくせに、火が付いたように怒りを撒き散らして威嚇する事がある。
まるで子供が癇癪を起こすみたいに。
本気で怒ると冷や汗が出る程怖いが、こんな風に怒っている時はまだ可愛らしい。
照れや気恥ずかしさが要因だと分かっているからかもしれないけれど。
「そんなに日焼けしてたら素手じゃないと痛いだろ？自分で出来るのか？」
ぐっ…っと、言葉を詰まらせたような一瞬の間。
反論が無いその隙に追い討ちで畳み掛ける。
「腕伸ばすったって、肌が引き攣って痛むだけだぜ？」
拒絶半分、悩み半分、それと…剥れが少々、と言ったような眼差しが返ってきた。
ギップルは転がったままのスポンジを拾い上げると、手の中で軽く握り潰してみる。
柔らかな泡と共に甘みを帯びた優しい香りが溢れ出す。
「ほら、いつまでも睨んでないで向こう向けって」
どうも素直に容認が出来ないらしく、パインは複雑な心境を表すかのように濡れたままの前髪を何度も掻き混ぜる。
「…嫌」
漸く唇から零れ落ちたのは、素っ気無さ過ぎる端的な答え。
「そうか？俺は別にこっちを向いてても構わねえんだけど…」
「そうじゃなくてさ」
分かってる。
分かっていて言っているのだ。
少々意地が悪いとは自分でも思うけれど。
でも、既に雨に閉ざされてしまったから。
暫くは出かける事はおろか、誰も尋ねては来ないだろう。
睨みと苦笑の攻防戦の末…どうやら観念したらしく、パインは渋々と背中を向けてくれた。
ギップルは泡を纏わせた手で肩口を幾度と撫で、背中のライン辿るようにゆっくりと滑らせていく。
パインは身を強張らせて、微かに身じろいだ。
熱が篭った素肌。
手のひらに伝わってくる熱さが何とも痛々しい。
雨が止んだら、村まで行って塗り薬を貰ってきた方が良いだろうか。
「痛むのか？」
「少しチリチリするくらい…」
そっとうなじを辿り、耳の後ろに指を差し入れると息を飲む気配がした。
ギップルはそれに気がつかなかったふりをして反対側の耳にも同じ動作を繰り返した。
あくまでも、優しく。
手を動かす度に小さく震える肢体。
零れ落ちる吐息を耐えるかのようなくぐもった声が微かに聞こえた。
それが決して痛みを耐えているのではないくらい、知っている。
「も、もう…良いって…」
雨打つ音に掻き消されてしまいそうな声がたどたどしくも訴える。
聞こえてはいたが、聞こえないふり。
これだけで終わるのはちょっと勿体無さ過ぎる。
こんな機会など滅多に訪れないと分かっているだけに、嫌と言われても止めたくない。
「顔上げて…」
「えっ…？」
戸惑っている間に、ギップルはパインの体を背中から抱き込むように腕を回すと…首筋から顎の先へと指を滑らせた。
反射的に晒す事になった喉元を指の腹でゆっくりと洗い上げる。
そこから徐々に手を下ろしていくと、さすがに強固な抵抗された。
「あとは、自分で、出来…る」
泡の感触も手伝ってか、柔らかな肌はいつもにも増して極上の手触り。
オマケに美味しそうな程に甘い香り。
溶け始めた透明の氷が淡い色の雫を纏う。
…やっぱり勿体無い。
既に不埒な事で頭がいっぱいだった。
「俺も、もう泡だらけだしさ…」
泡だらけになったパインの体を腕の中に引き寄せた時に張り付いてしまっている。
彼女にとっては嫌な予感に襲われたのか、パインは逃れようと身を捩った。
その瞬間、焼けた皮膚に痛みを覚えたらしく、耐えるような呻きが小さく漏れた。
「ほら、暴れると痛い思いするだけだって」
「ば、莫迦！あんたが変な考え起こすからだ！」
寸前までの艶っぽい様子など消し飛んで、すっかり癇癪玉になってしまった。
だが、添えたままの手をするりと動かすと、すぐに大人しくなってくれた。
ふるっ…と小さく震えた身を掻き抱いて、濡れた髪に頬を寄せる。
ギップルはその耳元で意地悪く囁いた。
「俺は、まだ何をするとも言ってないけど？一体何を想像したのか、教えて欲しいなあ」
日の熱を溜め込んだ体が更に熱さを帯びたのは
耳まで赤く染まったのは
多分、気のせいではないだろう。
かなり意地が悪い事をしているって事は自覚してる。
だって、触れたいから。
もっと、触れたいから。
ずっと、触れていたいから。
雨垂れに閉ざされた檻の中。
甘い悲鳴は、誰にも聞こえない。
終
迷った挙句に結局このお題。単にイチャイチャさせたかっただけ話。
お題34・濡れた髪：２００５０８２８：シアーズ