３０・指


　心地良い風が頬を撫でていく。

　何だか凄く眠たい。
　スフィアハントを終えた足でここに来たせいなのかもしれない。

　日が傾きかけて、柔らかな風が暑さを取り払っていく。

　まどろみが満ちてくる。
　瞼を落とせば直ぐに眠ってしまいそうだった。

　いつも彼が眠る寝台だからだろう。
　微かに嗅覚を擽る…彼の匂い。
　それが更に心を緩ませる。

　…今と言う時の中、この場所で、無防備に眠れる私がいる。







　髪を撫でられた感触に意識が覚醒していく。
　体が一瞬…痙攣したように震えた。


　…大丈夫。この人は大丈夫だから。


　理性と本能の狭間。意識がそう訴える。

　ゆっくりと目を開けてみると部屋中が朱に染まっていた。
　鼓動がトクンと小さく跳ねる。
　それが窓から漏れ入る夕陽の色なのだと分かった。
　部屋の中にある調度品が濃い影を床や壁に描いていた。


「もう…夕方？」

　掠れた声が自分の耳にも聞こえた。
　夢ではないのだと確信出来た瞬間だった。


「ああ。疲れてるのか？昼寝なんて珍しいな」

　心地よく響く声。
　高すぎず低すぎず、耳に馴染んでいく響き。


　パインは丸めた体を伸ばしていきながら顔を上げてみる。
　ずっと同じ体勢で眠っていたせいか少し体が軋んだ。
　逆光で表情までは完全に読み取れなかったが、見慣れた顔に行き当たって…無意識に長い吐息が零れた。


「…魔物七体」


　鬱陶しいくらいに沸いてくる魔物をそれだけ斬り捨てた。
　スフィアを守るように棲んでいた大物はユウナが倒したけど。


「そりゃ…ご苦労なこって」


　苦笑を含んだような声が降ってくる。
　そして、再び優しい手つきで髪を梳いていく指先。
　パインは半ばぼんやりとギップルの顔を見上げていると、ゆっくりと空間の色が変わっていく事に気が付いた。



　朱が深い赤へと変わっていく。
　少し渋みを帯びた…薔薇のような色彩。


「色が…」



　言葉にするつもりは無かったのに唇から零れ落ちた。

「…色？何の？」

　少し訝しげな声と共に顔が覗き込まれる。
　寝ぼけているとでも思われただろうか。



　それは何の色なのだろう。



　光の…色？



「染まってる…色」

　たどたどしいまでの答えに、ギップルは、ああ…と納得したような声を上げて、背後の空間を振り返った。

「日が暮れるからな…」


　ゆっくりと変化していく。



　どの瞬間とて同じ色はない。
　光と大気が織り成していく現象なのだと分かっていても…心惹かれる程に綺麗だ。



　赤とも紫とも付かない色。
　それを何と呼ぶのか知らない。





「…明かり付けるか？」
　ギップルはさほどにこの光景に興味が無いのだろう。
　私は立ち上がろうとする動きを制するように、髪から離れた彼の手を捕らえた。

「待って…」

　何も無い宙を見詰めたままそう言うと、ピントの合わない霞んだ視界の端でギップルが振り返ったのが分かった。



　でも…今は目を離せない。



　暗い灰赤紫に差し掛かると、一気に藍の色が強くなっていく。

　影の色を取り込んでいくかのように鈍色へと変化する。




　まるで深い海の底へ沈んでいくみたいだと思った。






　暗い暗い…何も見えない海。









　吹き込む風が体に絡みつくうねりのようだった。




　強く弱く…形の無い波が広がっていく。




　それが私の感覚を取り巻いて翻弄していく。





















「パイン…？」



　戸惑いげな声と共に覗き込んでくる顔。
　そして…握ってくれている手の温もり。

　気が付けば体が強張り、ギップルの手を強く握り締めていた。

　唇から悲鳴のような切迫したような吐息が漏れた。
　まるで息を付く事さえ出来なかったかのように。

　何度か瞬きをして間近にあるギップルの顔を見詰めていると、現実に戻ってきたのだと…分かった。



　幻想の海に飲み込まれるところだった。



「どうした？」

「海みたいだって…思って」


「…海？」
「真っ暗な海」




　全身に帯びていた強張りを解くように息を付きながら、パインは握っていたギップルの手を開放した。
　だがギップルは手探りで掌を合わせて、指を絡めてくる。

「何…？」

「一人で溺れないように…さ」
　暮色に染まった部屋ではもう表情など見えなかった。




　触れる吐息。
　そして唇。




「もう…大丈夫。溺れたりしないよ」


　間近にあるであろう顔に空いている指を伸ばし、そっと触れてみる。
　その私の指を捕らえて、ギップルはそっと自分の指を絡めた。


　そっと押し当てられた唇。
　そして温もりが重みを帯びて触れる。
　寝台のスプリングが軋む音が聞こえた。





　透き通るような闇色では無く、黒漫々とした一色だけの世界が満ちていく。



「どうせなら…このまま二人で溺れる？」



　楽しげな笑いを帯びたギップルの声が耳元で囁いた。







　今はもう少しこのままで。



　目を閉じても開けても何も見えない暗闇の中で感じ取れる、彼の温もりと吐息と…匂い。

　私は絡めた指にほんの少し力を込めた。




　暗く深い海も…こうしていれば大丈夫だから。


終


本編が進まないので、恋人編でお届けしようかと。
いつものピンクの背景ではどうも合わない気がしたのので、お題初の黒背景。
お題３０・指：２００５０３２２：シアーズ