２９・嘘でもいいから
「今度は邪魔が入らない場所が良いよなあ」
波音に紛れて聞こえてきたぼやきに、パインは荷の整理をしていた手を止めて振り向いた。
余程その場所が気に入ったのか…テラスに座り込んでいる後姿。
潮風に乗って紫煙が宙に舞う。
「…もう次の事を考えてるのか？」
呆れ声で突っ込んでみると、ギップルは振り返って口の端に笑みを彩らせる。
「先に楽しみが待ってるって方が色々やる気が出るってもんだろ？」
何ともこの男らしい言い様だ。
だが、頷けない理論ではない。
「あんたは目の前にギザールの野菜がぶら下がってた方が働くようだしな」
「俺はチョコボかよ」
ギップルは例えが不満そうではあったが、不快ではなかったようで苦笑が返ってきた。
贅沢なまでの休暇はもう直ぐ終わる。
明朝…ビサイドから出航する連絡船が辿り着く先には、日常と言う時間が待っている。
私はまたスフィアハンターとして剣を握り、彼もまた片眼帯のマキナ派のリーダーに戻るのだ。
「まーた、何か考えてるな？」
呆れを帯びた声に思考から意識が弾き出されて、パインは自嘲を零した。
再び集中した視覚の先には、吐露を促す一つだけの眼差し。
「あっと言う間だったな…って思ってさ」
「それは、来て良かったと思ってるって事か？」
「そうだな」
「ホントに？」
小さく頷く事で応えると、浮かんだのはあの…鮮やかな笑み。
この顔にはどうも弱い。
鼓動が勝手に忙しなくなってしまうから困る。
「まあ、たまには…こう言うのも良いかなって思うくらいには」
「そうか？じゃあ、次はどこに行きたい？」
突然問われても思い浮かぶ訳もない。
今日の食事を終える前に、翌日の献立を問われるようなものだ。
「ったく…気の早い奴だな」
「考えておいてくれよ。俺はどこでも良いんだ」
どこでも？それが例え…
「何も無い…誰もいない地の果てでも？」
怪訝そうに表情を改めたギップルは、ややあってどこか皮肉っぽい…彼独特の笑みを刷いた。
「パイン先生はいてくれるんだろ？…それだったら良いさ」
どうしてこいつはこうも真っ直ぐなのだろう。
臆面も無く…ただ真っ直ぐに求めてくるのだろう。
「どうして？」
浮かぶに任せて零れ落ちた問い。
ギップルはそれには答えずに苦笑のような吐息を零すと、こちらへと手を差し伸べた。
傍に招くように、誘うように。
躊躇が一瞬掠めたが、抗う理由などどこにも無くて…。
パインはゆっくりと足を踏み出した。
昨晩よりも一層濃い月の光が降り注ぐ。
凪いだ水面に弾かれて増した光が大気を白く染めてしまいそうだった。
するりと腕を捕らえた手が座るように促してくる。
木板の上に座り込んだ途端、抱き寄せられて体が傾いた。
「ちょ、ちょっと…」
「ジョゼに帰ったら暫くこんな事する暇あんまり無さそうだし、今のうちに栄養補給しとかねえとな」
「栄養…補給？」
「そっ、パイン先生は俺の栄養源だから」
それは男特有の飢えの事を指しているのだろうか。
さすがにここで相手をしろと言われても遠慮したい。
「あのさ…」
預けた胸から窺うように顔を上げると、悪戯っぽく綻ぶ瞳とかち合った。
「…今、また妙な事考えただろ？」
今日はこれで一度失敗していると言うのに、学習能力が無いとは情けない。
とは言え、ギップルにそう言う対象で見られていると分かっているから、つい身構えてしまう。
その最たる原因はこの男が触りたがりのせいだ…と責任転嫁してみたが、
熱くなった頬を簡単に治める事が出来るはずもない。
「考えてない」
ギップルは込み上げた笑いを多少堪えたようだが、直に振動が伝わってくる。
優しい手が髪を撫でていく。
何度も、何度も、ゆっくりと…優しく。
どうしてこの人の手は心地良くて、気を緩ませるのだろう。
込み上げる安堵にホッと息を付くと、添えたままの眼差しの先で緑の瞳が笑った。
あらゆる仮面を取っ払って無防備な面差しが現れる。
その瞬間が堪らなく嬉しいのだと分かっているのだろうか。
「なに？」
こんな顔をしている時のパインの声は普段より少し甘く聞こえる。
「栄養補給中」
「これ…が？」
今、腕の中にいる彼女には、全てを拒絶するように纏っていた冷たい鎧は…無い。
己を守る為に篭っていた強靭な殻も。
どこか幼さを漂わせる程に無防備だった。
甘えて欲しいのだと告げたとしても素直に表してくれる彼女ではないから、込み上げる歓喜は計り知れない。
「俺、今…すっげえ幸せな気分なの」
冴えた月の光の中に溶けてしまわない温もり。
指に絡む柔らかな髪の感触。
不思議そうに瞬きを繰り返して見上げてくる緋色の眼差し。
やがて、唇に浮かんだのは呆れを含んだような微苦笑だった。
「やっぱり、あんたって変だ」
「物好きだし？」
「それ、あんたの口から聞くと何かムカツク」
「パイン先生が言い出したんだろ？」
少し皺の寄った眉間に唇を寄せると、パインは反射的に目を閉じて微かに身を竦めた。
「そうだけど…」
今度は子供っぽく尖った唇に口付けを落とすと、弾かれたように鮮やかな赤が現れる。
ギップルはその視線に向けて、口の端を持ち上げてみせた。
「隙あり…ってね」
「や、やめろよ。それ…」
ほんのささやかな諍い。
それが出来るのはパインがここにいてくれるから。
何度も確かめる為に繰り返す。
そんな事を告げたら悪趣味だと本気で呆れられるかもしれないけれど。
でも確かめずにはいられないのだ。
そして、実感して幸福感に浸る。
「だって、俺…あんたが好きだから」
パインは一瞬言葉を詰まらせたようだが、あっと言う間に自分を取り戻したのか素っ気無い答えが返ってくる。
「…莫迦」
「あれ？それじゃ満足しねえの？じゃあ…」
違う愛の言葉でも囁いてみようかと思った瞬間、それを阻むように白い手に口を塞がれた。
「そ、それ以上は言わなくて良い。わ、分かったから。それで良いから」
頬を染めた可愛らしい顔でそう言われると、余計に言いたくなるのだが。
だがそれ以上に溢れる願いがある。
「…嘘でも良いから聞いてみたいもんだ」
「えっ？」
小さなぼやきにパインは耳を欹てた事が分かって、ギップルはその耳元でそっと囁いた。
声が浸透した瞬間、緋色の瞳が大きく見開かれた。
パインは再び言葉を失った口をパクパクさせ、忙しなく瞳を瞬かせた。
「ば、莫迦。い、いきなり…何…を…」
その顔は、もう沸騰寸前。
激しく動揺したように上擦った声がしどろもどろ。
今にも腕の中から飛び出してしまいそうだった。
ギップルはパインの頭を肩口に抱き込むと、その腕に力を込めた。
「…一瞬で終わるだろ？」
たった一言で良いのだ。
例えそれが真実でなくても、もし嘘だとしても騙されてやる。
その唇から零れ落ちたモノなら。
「い、言わないっ」
腕の中から逃れるように身を捩りながら、パインはか細い声をあげた。
「…ケチだなあ」
ギップルは溜息を堪えられなかった。
欲張り過ぎなのだろうか。この人にその一言を求めることは。
極度に照れ屋な上に強情で頑固なのは分かっている。
けれど、たったそれだけの文字を口に上らせるだけで良いのに。
考えを廻らせた瞬間に聞こえた、小さな小さな抗議。
鼓動が跳ねた。
「だって、嘘なんかじゃないから…」
求めていたモノではない一言が触れた吐息と共に胸の中へと染み入っていく。
今のパインにはそれが精一杯なのだろう。
でも、どんなに飾ったモノより、甘い囁きより鼓動を弾ませる。
意識して奇策を練っている訳ではないのだろうから…本当に敵わない。
媚びた嘘なんかより。
蟲惑的な囁きなんかより。
この人は、ありのままにそのままに。
俺を虜にし…
極上の幸福感へと誘う。
終
ベタベタなビサイド（ヴァカンス）編も締めと相成りました。あ〜ホント自己満足。
さて、次はどこに行こうかな。
お題29・嘘でもいいから：２００５０９０５：シアーズ