17・抱っこ


 もう怒るに怒れない。

 胸の中で弾けた火種がとても子供じみたモノに思えて、みじめな気分になった。
 自分がしていたのはただの八つ当たりだ。

 一日を台無しにされて。
 さも当然…と、勝手にあてにされた事が腹立たしくて。
 淡い期待を裏切られた気がして。
 過ぎった不安を振り払いたくて。

 そして、不快な事実を感じ取りながら認めたくなくて。


「ほら、こっち向いて」

 制御に慣れているはずの感情を思うように抑える事が出来ない。
 深く沈める必要性がなくなったからだろうか。
 彼なら受け止めてくれるかもしれない…と、期待や甘えを抱いているのだろうか。

「まだ怒ってんのか?一発じゃ気が済まない?」

 ただ小さく頭を振って答えると、温かな手が手首を掴んだ。

「…だったら、ほら」

 促すように軽く腕を引かれて、逸らし続けていた視線をゆるゆると当ててみる。
 胸を占めていた憤りが急激に萎縮してしまったせいで、隙間だらけの感情を持て余したまま。



 そこにあったのは、既に見慣れた彼の微苦笑。



「心配かけて悪かったな」


 謝るべきなのは私の方なのに。
 優しくなんてしなくて良いのに。


 どんな顔をして良いのか分からない。
 何をどう言うべきなのかも。


 押し黙ったままでいると、ギップルはその一つだけの眼差しで促してくる。


「…べつ、に」


 無意識に唇から零れ落ちていたのは、使うに慣れた答えだった。
 本当は色々と言いたい事があるはずなのに何も出て来ない。


 内にあるのは、小さな刺激でボロボロと崩れてしまう脆い塊。
 それを必死に守ろうとして殻ばかりが強固になった。

 だから、本当はちっとも変わっていないのかもしれない。


「あ、やっぱりまだ怒ってんだ」

 どこか暢気に聞こえた響きが急に腹立たしくなって、パインは掴まれていた腕を振り払った。

「違うってば!」


 荒げた声の余韻が殻の内部を疼かせる。





 放った声に己自身が傷ついたように、パインは顔を曇らせる。
 乱れた呼吸を繰り返していた唇をキュッ…と噛み締めた。

 恐らく色んな事を考えているのだろう。
 何も考える必要なんて無いのに。


 冷ややかな氷の殻の内に秘めるのは熱い熱い炎。
 無理に封じ込めようとするから爆発を起こす。

 それが、嬉しいなどと言ったら呆れられるだろうか。

 でも、この人がここまで無防備に感情を示してくれるのは、多分…自分だけだから。



 強がりの影にある臆病さも。

 素っ気無い態度の裏にある豊かな情緒も。

 冷たい言葉の裏の優しさも。



 ギップルは凝視したまま動かないパインに向けて両腕を差し伸ばした。



「ほらっ、そんな顔するならここに来いって」



 見開かれ揺れる眼差し。
 戦慄く唇から零れる震えた吐息。


「どうして?!」


 そして、悲痛な叫び。


 そんな事訊かれたって分からない。


 胸糞悪い事実より。
 馬鹿馬鹿しい現実より。
 辛そうに歪むその顔を見る方が胸に堪えるから。


 …あぁ、だからかな?


 唐突にそう思った。

 久々にあからさまな洗礼を受けても大した感情を抱かなかったのは。
 この人が知ったら多分こんな顔をすると思ったから。
 隠した優しさ故に憂いを抱かせると思ったから。

 それが単なる錯覚だとしても。



「…パイン」



 名を呼ぶ声で促すと、やがてやがて…腕の中に降りてきた温もり。
 それを抱き留めて、ホッと息を付く。

 首の後ろに絡まる腕にギュッと力が篭る。


 どこか悔しげな呻きが聞こえた。
「なんで怒らないんだよ?」

「だってパイン先生が先に怒るから…」


 ギップルは銀糸の髪に頬を寄せて、その背中を抱き締めた。

「…悪かったな」

 拗ねたような甘い響きが、掠れていたけれど…ちゃんと聞き取れた。





 不意にとても場違いな事を思い出していた。

 以前自分で書いた訓練の報告書の事だ。

 この男の性格や情緒面に関して、良い評価を書いた覚えがあまり無い。
 確かに、簡単にヘコタレないところや打たれ強いところ、屈託の無さはある意味美点でもあるのだが、
どこか飄々として掴み難くて独特の軽い調子に軽薄さを覚えた。


 でも、「底が見えない」と評した事がある。


 今でもそう思う。


 子供っぽくて我儘でありながら、妙に割り切りが早くて、どこか冷めた部分で客観的に物事を捉えていたりする。
 せっかちで感情に走り易い癖に、気が長くて辛抱強いところもある。


 この男は自分が知り得る型に嵌らないのだ。



 だから振り回される。
 それなのに厭えない。



「でも、悔しくないのかよ?」
「昔に比べたら断然マシだぜ?今回だって虫に咬まれた程度のもんさ」

 そんなの嘘だ。
 ただそれだけの理由で、不当な扱いをされて傷付かないはずがないのに。


「でも…」

 どうしても強がりや虚勢のような気がして。
 今だったら、弱音だってちゃんと受け止めてやれるのに。


「ちゃんと分かっている奴らだって沢山いる。それに…パインは俺を好きでいてくれるだろ?」
「うん…」


 その表情は見えないけれど、小さく笑ったのが聞こえた。


「だったら、それで良いんだって」


「そうなのか?」
「そうなんだって…」


 納得出来るようで、出来ない。
 やはり、自分の方が狭量だと言う事なのだろうか。
 でも、今の自分にはそれを信じるしか術がない。

 パインは広い背中に腕を回し、そっと抱き締めた。

 例えそれが真実で無くても。
 彼の腕が私を癒すように、この腕が癒しの糧になるようにと。





ネタがネタだけに重たい話になりまして…。
書きたかったのは、無意識で「うん」のところだけ…なんですけどね(笑)
お題17.抱っこ:20051116:シアーズ