１０・歌う人


　浅くなった眠りから意識がゆっくりと浮上する。

　触れる温もりや繰り返される穏やかな呼吸の音に、仄かな安堵を覚える。
　まだ少し重たい瞼をうっすら開けた先、ぼんやりとした視界の向こうにあったのは銀糸の髪。

　その存在を確認してギップルは再び目を閉じる。
　抱える腕に力を込めたのは無意識だっただろう。

　この温もりを抱えていると内側からじわりと温かくなっていく。
　色んな事があったけど、それすら遠い彼方だ。
　満ちてくるのは心地良い眠りの細波。
　極上の幸福とも思えるまどろみだった。

　例えこれが永遠の眠りの始まりだとしても構わないと思う程に。




　・・・あれは夢だったのだろうか。


　再び目を覚ました瞬間、ギップルはそう思った。
　意識を手放したのは一瞬の事のようなのに、腕の中から温もりが消えていた。
　何とも勿体無い事に、幸せを存分に味わった感はない。
　当に泡沫の夢であったかのように。

　据えられたマキナ時計はまだ早朝の時刻を指している。
　まだ思考は試運転状態。
　ギップルは寝台の上に座り込んで、大きく欠伸を漏らした。

　起こしても無駄だと思われたのか一人残されてしまった部屋。
　ここは彼女の小さなテリトリーだった。


　思いがけない幼馴染みと昔の仲間の攻防戦を何とか宥めてセルシウスに辿り着いたのは、既に夕刻だった。
　おまけに、お前の為に夜間飛行などご免だとアニキに宣言されたお陰で、思わぬ一泊をする破目になった。

　このセルシウスでどこを寝床に選ぶなんて決まっている。
　それを察知したパインにはかなりゴネた。
　だが、拾ってきた以上は責任持って面倒を見ろとのリーダー命令発令。
　俺は犬猫か。と突っ込みたくなったが、願ったり叶ったりのお達しに異議などある訳がない。
　かなり渋々な様子ではあったが彼女は部屋に入れてくれた。

　部屋に来たのは初めてではないが、泊まるのは初めての事だ。
　もう顔が緩みっぱなしだったのは言うまでもない。
　何だか色々嫌な目にもあったが、結果一番儲けたような気もする。

「俺って、タダでは転ばない性質なのかも」

　ギップルは苦笑交じりにそう独りごちながら、主のいない部屋を見回した。


　女性の部屋をあれこれと観察するのは少々気が引けたが、やはり好奇心の方が勝った。
　二人で寝るにはかなり狭かったシングルの寝台と小振りなクローゼット、小さめの机に殆んどを食われて空きのスペースが殆んどないくらいに狭い。
　一番広い空間が寝台上と言う感じすら受ける。

　飛空艇で個人が有する事が出来る空間は、これが精一杯なのだろう。
　机の上に紙片の挟まった本やファイルが積んであるくらいで、余計なものは何もない。
　パインらしいと思うくらいに飾り気の無い部屋だ。

　ここは、彼女が日々を過ごしている場所。

　知っているのと知らないとではやはり違う。
　通信スフィア越しに話をする時、ふと彼女を思い出す時、周囲の光景が描ける。
　ただそれだけなのだが、何だか妙に想像に愉しい。


　ジョゼであったならこのまま惰眠を貪る事も出来るが、主のいないこの部屋ではさすがに躊躇われる。
　寝起きの一服を吸いたいところだし、そろそろ起き出した方が良いのかもしれない。
　ギップルは区切り一つ吐息を付いて、寝台を降りた。


　外へ向かう扉を薄く開けた途端に気が付いたのは、香ばしいコーヒーの匂い。
　嗅覚が捉えたのはその香りだけではない。
　腹の虫を刺激するような美味しそうな匂いがする。

　こっそりと目をやったカウンターでは温かそうな湯気が立ち昇っている。
　ふわふわと揺れる淡い白色のベールの向こうには、見慣れた横顔。

　何をしているのかは分かる。
　でも、そんな光景を見るのは初めてで、果たして眺めていて良いものなのか判断に困る。

　何しろ相手はあの、パインだ。

　折角、彼女の部屋で二人きりになれたのに嬉しいとは一言も言ってはくれず、寝る間際までブツブツ苦言を零していたくらいだ。
　そのくせ腕の中で無防備に眠ってくれちゃったりするのだから、ホントに素直じゃない。

　ギップルは扉をほんの少し開けたままに立ち尽くしてしまった。
　このままそ知らぬフリをして出ていくべきか。
　それとも、もう少し窺ってからにした方が良いだろうか。

　傍目から見れば滑稽かもしれないが、本気で迷っていたのだ。
　そんな時、ふと、何かが耳を擽った。

　パインは口許に柔らかな微笑みを浮かべながらゆっくりとケトルを傾ける。
　どこか楽しげな様子で。


　・・・これじゃ益々出られねえなあ。


　ギップルは小さく苦笑を零して、薄く開けた扉をそのままに壁に背中を預けた。
　耳を欹てたまま。


　フィルターから滴る雫の音の合間に浮かび上がってくる途切れ途切れの小さな響き。
　その音に聴覚を集中させると埋もれていた音が次第に鮮明になっていく。


　ゆったりとした旋律。
　そこには声も歌詞もない。
　何と言う曲なのかは分からない。
　どこか甘い音律を帯びて奏でられる響きだった。

　ふと笑みが誘われる程に穏やかな空間。
　そこに入って共有したい気持ちもあったけれど、一歩足を踏み入れたら掻き消えてしまいそうで。
　鼻歌を歌いながら自身飲む訳ではないコーヒーを淹れている姿など、彼女が素直に見せようとするはずがない。

　だから、今はそっと耳を傾けて。
　扉の隙間から微かに洩れ入る心地良さに浸るだけ。



終



お題内に話収まらないと判断し、すっかり飛ばしてしまいました。バラ×リュの攻防戦（苦笑）
期待していた方がいたらご免なさい（いないって…）
お題10・歌う人：２００５１１２８シアーズ