０６・待ってる
執務室の扉を閉めて、バラライはそっとそれに寄りかかった。
零れ落ちたのは苦笑じみた溜息。
思い出したのはあの時の彼女の顔。
あの瞬間、刹那に触れた赤い瞳。
戸惑いと困惑に襲われ、更に存在と意思を拒絶され、一気に感情が弾けた。
多分、そんなところだと思う。
怒りとは衝動であり、持続するに難しい。
その熱量は外に向かえば憎しみや恨みに、内に向かえば自己嫌悪に転化される。
怒りの熱が冷めた時に彼女は何を思うだろう。
…パインの事だから後者かな？
バラライはそんな想像をしながら、小さな苦笑を刷いた。
無意識に降りていた視線を上げると、部屋を出た時より増えている気配の書類の山。
先程とは違う溜息が洩れた。
デスクに近づいて確認してみると、メモが添えられた書類が確かに増えていた。
「見なかった事にしたいなあ」
誰にも聞かせられないぼやきに応えるように、愛らしい鳴き声が聞こえた。
振り向くと、大窓の向こうで小さな影が動いている。
時々、ふらりとやってくる訪問者。
それはパインに良く似ていた。
バラライは窓辺に近づいて、彼女を驚かせないようにそっと窓を開けた。
でも、それ以上の事はせずに窓辺を離れる。
いつものようにミルクを温めようと奥へと向かおうとしたが、それを阻むような音が鳴り響く。
ホットラインのコール音。
それを鳴す事が出来る一人は先程ビーカネルに向かったのだから、相手が誰だか考えを巡らせなくても直ぐに分かる。
こちらが応対しなければ、回線は繋がる事はない。
バラライは微かに目を細めて、装置を見詰めたまま動かなかった。
別段、動き回っていたとしても、相手には分かるはずもないのだが。
気配を殺し、息を潜める猫のように。
どれだけ鳴っていたのかは分からない。
だが、彼の心境そのままのように、唐突にコール音が止んだ。
それを待っていたか、視界の端から小さな影がしなやかな歩みで近づいて来る。
彼女は手を伸ばしても届かない距離で立ち止まり、窺うように見上げてくる。
金色の静かな眼差し。
生憎と、動物と意思の疎通が出来るような器用な特技は持ち合わせていない。
硝子玉のようなその瞳を見詰め返す事しか出来なかった。
二、三度耳をぴくぴくと動かして様子を窺っていた彼女は不意に、まるで興味を失ったかのように視線を逸らした。
多少は懐いてくれても良さそうな程、ここを訪れているはずなのに…愛想も素っ気もない。
この猫にとって…この部屋は、少し体を休めるだけの場所なのかもしれない。
その姿が、パインと重なる。
寒さに震えて、傷だらけになりながら歩き続けた迷い猫。
彼女はほんの少し、誰かと寄り添っていたいだけ。
取り巻く世界が、己のささやかな望みすら奪い…移り気である事を知ってしまったから。
硬く冷たい殻は内に傷つき易い脆さがある証。
その脆さを自覚しているが故に、殻は硬化を増す。
幾度負ったか分からない痛手に、その手は自身を掻き抱く事しか出来なくなってしまっている。
・・・そんな痛みも空虚も、僕なら分かってあげられる。
それは一種、見つけた同類がそこにいる安堵のような、歪んだ愉悦なのかもしれない。
『俺はあんたを嫌いになりたくねえし、嫌われたくはねえんだよ』
我儘で傲慢で、真っ直ぐな想い。
それを突き付けられて、微かな予感がした。
認めたくはなかったけれど。
この男は強硬な殻を打ち砕くかもしれないと。
あんな言葉一つで、僕をささやかにでも揺さ振る事が出来たのだから。
何の計算もない、幼稚とも思える言葉で。
彼女には、あのままでいて欲しいと思う。
でも、あのままでいて欲しくないとも願っている。
そんな裏腹な想いなんて、あいつには理解出来ないだろう。
でも、彼女なら分かってくれるような気がする。
「馬鹿な賭け、しちゃったかな」
無意識に、唇が自嘲を刻んだのが分かった。
そう、賭けたのだ。
その権利も資格も持ってないと分かっていながら、自分は賭けた。
投じられた賽に全てを委ねた。
今はただ、その決着を待つだけ。
その出た結果に、自分は何を期待しているのだろう。
胸に溢れるは、数え切れないほどの想い。
曖昧過ぎて、複雑過ぎて、明確なカタチを捉える事が出来ないままでいる。
気が付けば、金色の眼差しが静かにこちらを見詰めていた。
終
ぐるぐる議長様。
最初はイメージが固まらなくて難しかった彼。とうとう「屈折してるヤツ」になってしまいましたわ。
何とか締めの格好が付いたかな？お次は（予想通りかと思いますが）ビーカネル編。
お題０６・待ってる：２００５０３１２：シアーズ