05・初めてのキス


 不意に我に返る。
 そして視線を辿らせている己に気が付く。


 囚われの姫君の解放したカモメ団は明日の午後までやって来ない。
 それを意味するところが容易に分かってしまうから、余計に意識してしまう。


 他愛の無い話題や思い出話が途切れると、じっと見詰めてくる眼差し。
 そこに警戒心は見えない。
 ただ、戸惑ったように微かに揺れる。

 何かを言いたげにしているのは分かるのだが、探りを入れようとすると我に返ったように口を噤む。



 ギップルは何本目かの煙草に火を灯した。
 オイルライターの蓋を開閉する金属音だけが、沈黙の中に響く。

「一体、何本吸う気だ?」

 横目に窺っていたパインは柳眉を顰めて問いてくる。
「さあな。酒の肴みたいなモンだし」

 正確に言えば、間を誤魔化すのには格好の代物なのだ。

「美味いのか?」
「俺はね。試してみる?って言いたいところだけど、女性にはあまりお勧め出来ねえな」


 ふうん。と素っ気無い答えを返してきたパインは、殆んど氷だけのような残り少なくなったグラスを傾ける。
 飲んでいると言うよりは舐めるような仕種だった。

 空いた腕で片膝を引き寄せる様は、どこか所在無さげだ。
 体を小さく縮込ませて、慣れない空間に触れる事を拒むかのようにも思える。



「もうちょっと寛いだら?」

「えっ?」


 緋色の瞳が疑問符を浮かべて瞬く。
 何を言われているのか分からないらしい。

「これだよ。そんなに小さくなってないで・・・」

 膝を抱えているパインの腕に触れた瞬間・・・手のひらに伝わった感触に鼓動が跳ねる。
 咄嗟に手を離して、煙草を咥え直す。
 そして、己を落ち着かせる為に一服呼吸を整えた。


 こちらの動揺に気が付かなかったのか、途切れた言葉の先を促すように静かに見詰めてくる緋色の瞳。
 それが不意に苦笑を帯びた。

「やっぱり、私といても楽しくないだろ?」
「そんな事ない」

 絶対無い。
 そう思っているのはパインの方ではないのかと、疑っているくらいで。


「気の利いた話題なんて思いつかないし、巧く話を聞いてやる事も出来ない」
「まあ、俺は何か喋ってねえと落ち着かないだけだし、気にする事ねえよ」




 気がつけば視線を辿らせている。

 その形良い柔らかそうな唇に。
 白い首筋に。
 綺麗に浮き出た鎖骨から、胸元へのラインへと。


 ただ一度だけ触れた感触を思い出そうとしてしまう。

 あの時とは違ってそれが許されるであろう関係ではあるのだが、あまりにも性急過ぎる気もする。


 とは頭で思っていても、悲しいかな。これでも健全な青少年なのだ。




 吸っていた煙草を灰皿に押し付けて、無意識に手探りで煙草の箱を引き寄せようしていた。
 その手が何かに阻まれる。

「…ったく。いくら何でも吸い過ぎだぞ?」

 咎めるように睨めつけてくる間近な眼差し。
 気が付けば、触れ合う程に接近していた。

 煙草を抜き取ろうとした指を阻むように添えられたのは、紛れも無くパインの指先だった。
 ただそれだけなのに鼓動が逸る。

 何でこんなにも無防備に触れてくるのだろうと無性に腹立たしくなった。



 ギップルは捉えられた手を返して掴んだパインの手を強引に引き寄せる。
 強張りが抵抗となって伝わって来たが、構わずに空いた腕を肩へ回して体ごと抱き寄せた。



「俺が何で落ちつかないか、分かんねえの?」



 腕の中に収まった体が微かに震えた。

「ホイホイ手を出すような無神経じゃないと言わなかったか?」
「ここまで我慢した事を褒めて貰いたいね」


 小さく身じろいだパインは、ゆっくりと顔を上げて見上げてくる。

 何か不可解なモノを見つけたように幾度も瞬く赤い瞳。
 それが徐々に変化していく。まるで思考の変化を描くかのように。
 さすがに、その意味を読み取るまでには至らないけれど。


「…しないと駄目か?」

「無理強いをするつもりはねえよ」

 そうは言っても、これ以上一緒にいて我慢なんて出来そうにない。
 今夜は別の部屋で寝て貰った方が良さそうだ。


「嫌…って訳じゃないんだ。ただ…」

「ただ?」


 パインは言葉を選び取るように眼差しを泳がせていく。



「やっぱり、その、怖かったから」



 臆したようにそう告げた顔はめちゃめちゃ可愛いったらない。
 今まで緊張も、苛立ちも不満も全部吹き飛んでしまうくらいに。
 勿論、素直に気持ちを表現してくれた事も嬉しかった。



「・・・何ニヤニヤしてるんだよ。人が真面目に話てるって言うのに」

 緩んだ顔を見咎めて、パインは眉根を寄せて軽く睨んでくる。

「可愛いなあって思ってさ」
「あんたの目、おかしいんじゃないのか?」
「そんな事ない」


 ギップルはそう断言して、皺の寄った眉間にそっと唇を寄せた。
 咄嗟にパインが目を閉じた隙に額や目尻へと口付けを落としていく。



「くすぐったいって」



 その感触から逃れたかったのか、パインは身を捩って凭れていた体を起こそうとする。

「それだけか?」
「他に何があるんだよ」


 図らずとも真正面にやってきた唇に顔を寄せた瞬間、伏せられていた緋色が鮮やかに現れた。
 ちょっと驚いたように瞠った瞳が、戸惑ったように揺れる。


「キスも怖い?」

 囁くように問いかけると、強張りを解くような吐息が…唇に触れた。

「そうじゃない、けど」



 長い睫毛が微かに震えて、躊躇いを纏わせながらも瞼が再び伏せられていく。



 その唇に口付けるのは初めてではないけれど、さすがに緊張する。
 もしかしたら、初めての時よりドキドキしているかもしれない。

 逸る気持ちを抑えつつ、触れ合う感触を心待ちにして、ギップルは更に顔を近づけていく。






 触れるか触れないかの、その寸前。


 突然、パインの肩がぴくんと小さく跳ねたかと思うと、力いっぱい押し退けられた。

 勿論、驚いた。
 何が起こったのか分からなかったくらいだ。

 ・・・まだ、何にもしてねえぞ。おい。


 だが、彼女の次の行動には更に驚いた。




 今までに無い険しい顔をして、あっと言う間に立ち上がると扉に向かって駆けていく。

 パインが勢い良く開けた扉の向こうにあった光景に、ギップルは思わず呆気にとられた。


 そこにはどう見ても部屋の中の様子を窺っていたとしか思えない連中の姿。
 中にはコップを片手に。なんて奴までいる。
 こっちは物音すら気が付かなかったのに、さすがは感覚が開きっ放しの猫だ。

 などと、一人暢気に感心している場合ではない。




「あんた達!覚悟は出来てるんだろうね!」



 銀糸の髪が逆立つ程にいきり立った怒鳴り声に、情けないまでの悲鳴が上がる。

 それはそうだろう。
 本気で怒らせるとそこらの魔物より怖いのだ。
 このお方は。




 同情はしない。

 する訳がない。

 やっとここまで漕ぎ着けたと言うのに。

 あと一歩だったのに!


 悔しさと怒りとが沸々と込み上げる。
 それを堪えるつもりもなかった。


 スピラ屈指の女剣士の迫力に気圧されて這い蹲っている連中を見渡して、ギップルは指の関節を鳴らしていく。
 それはもう、良い音が響いた。

「お前ら。いい度胸してんなあ」




 普段は陽気で人懐っこい性質の男が放つ地を這うような声に、誰もが思ったに違いない。

 過ぎた好奇心は身を滅ぼす。と。





約束の展開で申し訳ない気も。一応、昇格後初めてのキス(未遂)と言う事で(ははは…)
お題05・初めてのキス:20050626:シアーズ