０２・ケンカ
「そう言えば、渡すの忘れてた」
バラライは思い出したようにそう言って懐を探り出した。
暫く窺っていたが、どうやら探し物が出て来なかったらしく彼は困ったように小首を傾げる。
「何を？」
「部屋に君の役に立ちそうな本があったから書き出しておいたんだけど、執務室に忘れてきちゃったみたい」
「図書館に置いてないような本なのか？」
「まあ、あそこはエボンに都合の悪い本はあまり置いてないからね」
そのエボンに属し、議長の肩書きを持つ男がしゃあしゃあと言うのだから呆れる。
「あんたが言うのもどうかと・・・」
バラライは再度探していたが、やはり見つからなかったようで諦めたように小さく吐息した。
「後で執務室に寄ってくれる？部屋の手配もしておくし」
「良いよ」
「何だったら、僕の部屋に見に来るかい？その方が直ぐに渡せるよ」
「量が多いようなら取りに行くけど」
それは小さな閃光が弾けたような感覚だった。
視覚が捉えたものではないのは分かった。
一種、殺気にも似た・・・
「あんたは一体、どう言うつもりなんだよ」
突然耳に飛び込んできた唸るような声に驚いて、パインは弾かれたようにその主を振り返った。
苛立ちが満ちた緑の瞳がこちらを睨んでいた。
あの感覚が全身を粟立たせる。
「ギップル？」
そんな顔をされる理由が分からずにパインは戸惑いを覚えた。
「俺の気持ち知ってて、良くそんな事が言えるな」
そんな事が、どの部分を指すのか、咄嗟に思い浮かばない。
今、自分が言った言葉を全て思い返しても、理解が出来なかった。
「何を・・・」
・・・怒っている？
そう口にする前に、今度は反対側から「ふーん」と妙に納得したような呟きが飛び込んでくる。
「・・・そう言う事」
パインはバラライの呟きの意味が分かって、顔が強張るのを感じてしまった。
ギップルとの間が微妙な関係になっている事を知られてしまったのだと分かったから。
その呟きで、ギップルの怒りの矛先がバラライへと向けられたらしく剣呑な視線を閃かせた。
「何が、ふーん、そう言う事だ。あんただって・・・」
ギップルの言葉を遮るように、バラライが呆れたように苦笑を零す。
「それは邪推だね。いい迷惑」
「邪推だあ？よく言うぜ。ヨロシクやろうって魂胆丸見えじゃねえか」
「失礼だな。君と一緒にしないでくれる？」
「餌チラつかせて懐かせようって腹の癖に」
パチッと弾けた気配は、今度はバラライの方からした。
自分はそれを何だか知っている。
強い感情が爆ぜる時に人が放つ気配だ。
「ちょ、ちょっと二人共、やめろって・・・」
制する声など聞こえないかように、睨み合ったまま二人は動かない。
パインは心臓が萎縮するような感覚を覚えた。
原因は紛れも無く自分だろう。
だがどこが発端だったのか、縺れた糸の先がまるで見えない。
「自分が素っ気無くされるからって八つ当たりは止めてくれる？」
「後からノコノコ出てくるんじゃねえよ」
「先に好きだって言ったからって、優先権がある訳じゃないよ」
居た堪れないなどと容易に表現出来るものではない。
・・・何で？
頭の中に浮かぶのは疑問ばかり。
穏やかな午後の時間のはずだった。それなのに・・・
「やめてってば・・・」
干上がりそうな口から漸く搾り出した言葉に、緑と琥珀の眼差しが一瞬向けられた。
「パインは黙ってて」
「あんたは黙ってな」
同時に向けられた二人の言葉に、湧き上がったのは、戸惑いでもなく痛みでもなかった。
それを通り越して、火のついたのは怒り。
その瞬間、一気に意識が冴えた。
一瞬、傍で凄まじい火花が散ったように感じた。
「やめろって言ってるだろ！」
パインは勢い良く立ち上がると、手元にあったコップを引っ手繰り、ギップルの顔を目がけてぶちまけた。
一瞬の事で止める間も無かった。
その間があったとしても、止めたかどうかは別で。
それだけでは怒りが収まらなかったようで、バラライの前にあったコップも同じよう引っ手繰る。
「ちょ、ちょっと、待っ・・・」
静止の言葉など聞くつもりもなかったらしい。
パインは強張ったバラライの顔へと、その中身を勢い良く浴びせた。
「頭冷やせ」
吐き捨てるような台詞の後に続いたのは遠ざかっていくヒールの響き。
そして勢い良く閉じられた扉の音。
痛み視界が閉ざされていたが、どう言う状況なのかは充分に飲み込めた。
満ちたのは長い長い沈黙と言う名の静寂だった。
「…痛ってえ」
呻くように呟いたギップルの声にバラライは思わず同意してしまった。
「うん。痛かった」
恐らく、パインは怒っていたから分かっていなかったと思うが、コップの中に入っていたのは氷が浮かんだ水。
それが礫のように容赦なく顔を打ったのだ。
正直、本当に痛かった。
濡れた顔を拭って目を開けると、一つだけの緑の眼差しとかち合った。
言葉も無いままに互いに視線を逸らす。
そして、同じように深い溜息をついた。
「どうすんだよ」
「どうしようね」
論点は分かっているが、解決策など思い浮かばない有様だった。
まさか、こんなカタチでパインを怒らせる事になるとは。
しかも、キレたと言って良いほど怒っている。
「あ〜！もう！」
ギップルは頭を抱えながら、癇癪のような喚きをあげた。
それだけでは感情が抑えきれないのか、濡れた金の髪をガシガシとかき混ぜている。
癇癪を起こしたいのはこっちだって一緒だ。
「・・・抜け駆けなんかするからだよ」
八つ当たりでしかない呟きを聞き咎めたのか、ギップルは睨むような視線を向けてくる。
「すると何か？俺はあいつが好きだから黙って見てろって、宣言すれば良かったのか？」
「そうじゃなくてさ」
「じゃあ、何なんだよ」
明らかに尖った声に、また神経が逆撫でされる。
多少の事なら冷静でいられると思っていたのに、何故か分からないけれど腹が立つ自分が抑えられない。
だが、口を開こうをした瞬間、耳に飛び込んできたのは遠慮がちなノックの音。
バラライは、はけ口を失った感情を小さな舌打ちで抑え込んだ。
「議長様、ガラ悪いぜ？」
そんな所作をギップルは小さく鼻で嘲って、口許を歪ませる。
溢れそうな苛立ちを今度は吐き出した息に紛れさせ、バラライは牽制の睨みを閃かせた。
ギップルは惚けたように肩を竦める仕種をすると、椅子から立ち上がって背にしていた窓を大きく開いた。
バラライは再び大きく息を吐き出すと、先程から返事を待っている扉の向こうにいるノックの主に声をかけた。
「どうぞ・・・」
やはり遠慮がちに開いた扉。
その向こうに立っていたのは店の店主だった。
「失礼致します。次の料理はお運びしてよろしいので？」
憤って出て行った女性。
残った男二人は濡れ鼠。
そんな有様を見ていながら店主は顔色を変える事無く、平然と問いてくる。
念の為確認しておきたいと言うことらしい。
バラライはバツの悪さを苦笑で誤魔化して、ギップルへの背中へと視線を向けた。
いつの間にか咥えた煙草をふかしながら動かない背中。
「お願いします。二人共お腹空いて気が立っているみたいだから」
「では、先に温かい物でもお持ちしましょう」
来た時と同様に、店主はにこやかに笑って恭しく頭を下げて扉を閉じた。
再び降りた沈黙に、ギップルが煙を吐き出す音が溶けていく。
「・・・食えねえ店主だな」
背中を向けたままの苦笑交じりの声。
どうやら、彼の方も少しは頭が冷えたらしい。
「まあね。ベベルにシンが落ちて来て大混乱だった時も、お店開けてたって噂だし」
「そいつはすげえや」
ギップルは窓の外を見たまま、小さく肩を震わせる。
そして、胸の中の全てを吐き出すように煙草の煙を吹いた。
互いに言わなければならない言葉は目の前にあるのに、どちらも手を伸ばそうとしない。
ここで折れてあげるのも大人と言うものだろうか。
・・・でも、それはそれで癪に障るんだよな。
決して「負け」ではない事が分かっていても。
それは男としてのプライドと言うより、年上のプライド・・・なんて、ちょっと子供っぽい意地なのかもしれない。
終
男同士の喧嘩というより、子供の兄弟喧嘩。
誰が一番悪いかって？そりゃ…無自覚なパイン先生なんじゃないでしょうか。でも逆ギレ（ははは…）
お題０２・ケンカ：２００５０２２７：シアーズ